HEART MAKER WEBSITE

Contents

もし、この本を世界中の人が読んだ時点で世界平和が実現していなかったら私の命を差し出します。:著者

7:常識を超えた問題の解決マニュアル

 

*『世界平和の作り方』

 人間は、あらゆることで議論します。ゴミの分別方法、子どもの教育方針、企画会議から株主総会、科学的、哲学的、宗教的論争から、国会、サミット、国連総会に至るまで、とにかく人間は、ありとあらゆること、あらゆる場所で日々議論を闘わせています。
 損得、メリット/デメリットや利権で動いている人ばかりではなく、自分の意見が「良い」「正しい」と思って主張している方もたくさんいらっしゃるでしょう。とは言え「議論に勝つ」「ディベートに勝つ」と言えば聞こえはいいですが、極小から極大まで議論の本質は「自分の意見を相手に押し付けること」にあります。
 例えば、日本を核武装したい人たちと日本を非武装にしたい人たちが議論を闘わせたとします。ある時は、どちらかの声が大きく、主流派になり意見が通ったとしても、4年後にはまた揺り戻しが起き、世論の流れが変わるかも知れない。そして、また4年後には政権が交代し……と、結局、社会はあっちに行ったり、こっちに行ったりするだけで問題の本質的な解決には決して至りません。なぜか? みんな「どちらが正しいか」ばかりを議論して、誰も「なぜ、意見が対立してしまうのか?」とは考えようとしないからです。
 私が本書の弟分である『THE ANSWER』を執筆することになった直接のきっかけは、老人ホームの現場で日々巻き起こる、職員同士の議論、口論、対立、喧嘩をどうすれば根本的に解決出来るのか? と考えはじめたことにあります。
 私は職場で役職のない、中立の立場に居る単なる聞き役の介護員でしたので、いろいろな職員が、私のところに来て各自の主義主張を訴えて行きました。今、考えれば、それは愚痴として聞き流すべきことだったのかも知れませんが、持って生まれた哲学的衝動が発動し、なぜ意見が対立してしまうのか? どうすれば組織として、その場しのぎではない、本質的な解決に至るのか? 考えに考え、考え続け、ある時「スコーン」と、その答えに辿り着いてしまったのです。その答えが「言語発生起源」であり「QAS」です。
 意見がなぜ対立するのかと言えば、言葉があるからです。人間の思考は言葉によって行われ、言葉によって個々の意見が形作られ、その言葉を使って人間は議論を闘わせる。だったら言葉がなくなればいいとは思いません。社会を形成する以上、人間は言葉なしでは生きていけない。でも、この世界に言葉が生まれた時点では、この世界にはたった一つの単語(概念)しかなかったのです。このたった一つの単語がさまざまに分岐し、枝分かれして行くことによって現在の多様な言語が形成され、種々様々な考え方、思想、宗教が生まれ、意見が対立し、議論を闘わせ、人は戦争までするようになった。
単純に考えて下さい。あなたが、そういう考え方をするようになったのは、あなたの頭の中に言葉が生まれたからです。では、あなたの頭の中にある言葉や考え方が、そもそもどこから来たのかと言えば、人類の起源において、サルの頭の中に言葉が生まれたからです。
あなたが何かの主張を持ったとしましょう。「信念を貫き通す」と言えば聞こえはいいですが、言い換えれば、それは「こだわりを相手に押し付ける」ことに他なりません。誰もが自分の信念を貫き通していたら、組織は、社会は、世界は決して一つにはまとまらない。「味噌汁の作り方は、こうあるべし」という信念もこだわりだし「日本は核武装すべし」も「日本を非武装にすべし」も、どちらもこだわりです。あなたの意見は単なる「こだわり(とらわれ)」であって、そこに「絶対的な根拠」はありません。
 もっとも確実な学問と考えられている数学でさえ、その体系が基盤としている「公理」、例えば点や線の定義そのものに根拠があるわけではありません。それが絶対的なルールとして存在し得るのは、「点や線はこうあるべし」というこだわり(取り決め/約束事)がコンセンサスとして共有されているから、という理由に過ぎません。
つまり、もし学者も医者も経営者も宗教家も政治家も法律家もジャーナリストも誰もが自分の意見の根拠、土台を最後の最後の最後まできちんと考えるようになれば、結果的に誰も何も主張出来なくなります。なぜなら、誰も「おれが正しい」とは言えなくなってしまうから。

「あたしいつも、人権て普遍的なものだって、偉そうにいうんだけど(中略)なんで普遍的なものなのかと、そのへんを考えるとわからなくなる。偉そうにいうてはいるんやけど、ものすごくわからないところ、いっぱいあるのね。『世界人権宣言』も国連総会で決められたものですけれども、それは一つの国家の法律みたいに押し付けられるものなのかどうかとか……」
イーデス・ハンソン/武者小路公秀著『世界人権宣言』(岩波ブックレット)

 簡単に説明すると、こういうことです。みなさんはプラトンの産婆術(さんばじゅつ)をご存知ですか? 高校の倫理の教科書にも出て来ると思いますが、対話によって相手に無知を悟らせるという議論テクニックです。例えば、ヒットラーが「ユダヤ人は撲滅(ぼくめつ)せねばならぬ!」と主張したとします。そこで彼に「その意見の根拠は?」「その意見の根拠は?」と延々と問い詰めて行くと、彼は、必ずどこかで言葉に詰まります。この産婆術は、原子力発電所を再稼働させたい政治家にも、させたくない政治家にも応用出来るし、地球温暖化を主張する科学者に対しても、地球寒冷化を主張する科学者に対しても同じことが言えます。
自爆テロの遂行を志すイスラム原理主義者であろうとも、自分の行動の根拠となる「アッラー」が解体されてしまえば、自爆テロを行う理由がなくなります。自動車を壊すために物理的に圧力を掛けてスクラップにしなくても、自動車の構造を完全に理解していれば、工具を使って解体出来ますよね? 例え、どれほど頑丈な自動車であっても。
 全人類が「自分の意見に根拠はない」ということを理解し、そこでコンセンサスが形成されれば、誰も自分の意見の正当性を主張出来なくなります。では、人間の思考がフラットに戻り、みんなが同じ丸い土俵に乗った時に、どうやって組織で、社会で意思決定を行えばいいのか、誰もが共有可能な形でその思考プロセスをガラス張りにしたのが『THE ANSWER』で提唱した「QAS」です。
自分の意見を押し通すことはもう止めて、世界平和を本気で作ってみませんか? そのための手段(システム)は存在するのだから。

*『死、超常力、夢』

 とても怖い夢を見ました。7歳と5歳の息子を連れて旅に出て、行った先で次男とはぐれ、どうしても次男と再会することが出来ない、という夢。端から端まで現実的な夢で、起きてからしばらく経っても、そこで展開したストーリーと情景をはっきりと思い出すことが出来た。その夢の中で体験した、子どもとはぐれてしまった時の恐怖感、不安感がすさまじかったので、起きた後、妻にその夢の話を聞いてもらっていたのですが、その時に「死とは何か」「超常力とは何か」、そして「夢のカラクリ」が分かった気がしたので、書き留めておきます。



 常識的な方は、人間は死ぬとゼロ=無になると考えていらっしゃると思うのですが、死は恐らく、そんなに単純なものではないのです。
 私たちは「善/悪」「真/偽」のように「生前」「死後」と二項対立で人生を考えているけれど、あらゆる概念は人間が言葉というツールを使って自然界をジョキジョキ勝手に切り取った形に過ぎません。すなわち「死」という概念を解体して考えれば、生者も死者も、明確な境界線のない一つながりの存在です。現代医学では呼吸・鼓動・脳機能が停止した状態を「シ(death)」と言うコトバで表現する。でも、そのルールを決めたのは、あくまで人です。本書では便宜上「死者」という表現を使いますが、私は「死」と言う現象を、自然界から生まれた人間が、なだらかにまた自然に戻るプロセスだと考えています。
 私は奥多摩で魂を割り、心の中のストレスが完全に抜け切っていた時、今、死んだら、おれは綺麗に消えて昇天、成仏出来るな、という実感は持っていました。だから、綺麗に死んだ時の感覚はリアルに分かります。
恐らく、人生を生き切り、思い残すことなくスッキリ死んだ人は「スゥー」と消えて、天国でも地獄でもなく、森羅万象としての自然界に戻るのではないかと思います。でも、悔いや恨み、未練を残して死んだ人は、綺麗にこの世から消えて、自然界にスッキリ戻ることが出来ない。そういう死者が現世に残した魂のカケラが、恐らくは霊なのだと思います。つまり心身が死んだところから、スーッと綺麗に消えてゼロになる人と、時間をかけて曲線を描いて、この世から消えて行く死者がいる。
 現代社会では、科学的に説明出来ないことは切り捨ててしまいます。でも私は奥多摩で過ごしていた2週間の内の数日、日常世界とは異なる次元に足を踏み入れていた。
身体としての自分が「異界」に移行していたわけではないけれども、脳が通常とは別のフェーズで作動すると、人間も「異界」とコネクトすることができるのだと思います。スピリチュアリズムに聞こえるかも知れませんが、日常的な例で言えば、スポーツやクリエイティブな仕事をしている時に、異様な集中力を発揮したり、もしくは禅的な瞑想状態に自然と一体化したり、「ゾーンに入る」「フローに入る」という経験や宗教体験をしたことがある人は、たくさんいるのではないでしょうか? そうした日常レベルでの「超常体験」も、脳の特殊な働きによるものです。
 つまり、この世界は、目に見えるもの、理屈で説明の付くことだけで成り立っているわけではない、ということです。人間が思考(論理/科学)によって説明できるのは、あくまで脳のごく一部の働きによって認識している世界だけです。
 村上春樹さんは、井戸の底に下りる行為や、現実と異世界の境界を描いたりすることが多い。彼は恐らく、ものすごく深く集中した時に見る「その世界」を自覚的に知っているのだと思います。また霊界と交信出来るとされているミディアムやシャーマン、呪術師が発揮しているのも、普通の人が臨死において体験するのも、虫の知らせも、この、脳の特殊な働きによるもの。
 人間の脳は大雑把(おおざっぱ)に上下で分けると、下のコア、大脳辺縁系(だいのうへんえんけい)に本能を司る動物脳があって、上の表面、大脳新皮質(だいのうしんひしつ)に理性を司る人間脳があります。
人間の死を予知するネコ、数千キロ離れた場所でも自分の子どもの危機を感知するウサギなど、動物は超常的な力を持っています。また、サメが生命体の発する微弱な電気を感知したり、コウモリが超音波で空を飛んだり、小動物が地震を事前に察知したり、といった特殊能力も、人間から見たら超能力です。そうした、我々人間の常識を超越した動物としての特殊能力が、ヒト脳の原初的な動物脳の部分に残存していても不思議はない。我々人間が持つ超常力は、きっと、この動物脳が作動して発揮するパワーなのだと思います。
普段、私たちは言葉によって構築された論理的、科学的な日常世界の中で、人間脳を使って生きているけれども、ある時、動物としての本能的な脳機能がよみがえり、常識を超えた力を発揮する。異常な集中力がもたらす宗教体験も、この動物脳が覚醒した状態に起こる現象だし、まだ論理に汚染されていなかった古代の人々の方が、そうした動物的な能力を発揮しやすかったのではないかと思います。ピダハンとともに暮らしていたD・L・エヴェレット博士は、ピダハンが自分(博士)には見えないものを見て騒いでいたと著書の中で書いていましたが、彼ら原始部族もやはり言葉=理性に汚染されていない分、原初的脳機能の働きが強い。
「ゾーンに入る」「フローに入る」(ビジネスやスポーツの世界で、すべての物事が滑らかに進行する、超越的、奇跡的な時間体験)という現象も、やはり極度の集中によって人間脳(理性)が活動を停止し、動物脳が覚醒することによってもたらされるのだと思います。
意図や企みが解け、理屈で判断することを止めると、流れを堰き止めるものが消えて、物事は自然に流れはじめる。人間が完全に肩の力を抜いて、リラックスし、自然体(ナチュラルなマインド)で向き合うことが出来れば、きっと、ライオンとだって仲良くじゃれ合える。ムツゴロウ(畑正憲)さんのように。すなわち、その状態が「ゾーン」であり「フロー」なのだと思います。
私は、ムツゴロウさんも動物脳が覚醒した異能力者だと思っていますが、恐らく彼は、常に「ゾーン」「フロー」の状態にいるから、化け物のように麻雀が強いのです(昭和麻雀十傑の一人で日本プロ麻雀連盟相談役/段位九段)。勝つことを意識し過ぎたら勝ち続けることは出来ない。でも、自然の流れに身を委ねることが出来れば不思議な現象が起こる。



言葉を持たない動物は意図や企み持たず、いつも自然体ですが、犬や猫が眠っているところを眺めていると「ああ、夢を見ているんだな」と思うことがあります。人間に飼育されている動物はストレスを抱えるし、人間と同じように、そのストレスが原因で夢を見ることもあるとは思いますが(夢を見る原因は、ほとんどの場合、脳が抱えるストレスです。ストレスを抱えていない人は、あまり夢を見ないと思う。夢はストレスのバロメーター)、動物の夢には恐らく「ストーリー」がない。でも、人間はストーリーのある夢を見るし、時に、ものすごく解釈に苦しむ不可解な夢を見る場合もある。
オーストリアの精神分析学者であるジークムント・フロイト(1856-1939)は、夢とは幼児期からの抑圧された無意識的願望の表れだと考えました。スイスの心理学者であるカール・グスタフ・ユング(1875-1961)は、夢とは古代から人類が共有している集合的無意識の表れだと考えました。それから100年近く経た現代においても「夢とは何か?」、その答えに決定打はまだ出ていませんが、「動物脳」という概念を使えば、夢の原理自体は説明出来ると思うのです。
きっと、睡眠時、人間の深奥にある動物脳の部分と、表層にある人間脳の部分は溶け合った状態、渾然一体(こんぜんいったい)で作動している。その「超常的な動物脳」+「理性的な人間脳」が合体融合した状態で我々が見ているのが「夢」なのではないでしょうか。
 具体的に言えば、起きている時に何か気に病むことがあれば、その心象が動物脳のネガティブなイメージを呼び覚まして、夢として睡眠中に現れることもあるだろうし、起きている時に、無意識に認識していた情報が睡眠中に動物脳の危機察知能力とリンクして予知夢を見る場合もあるかも知れない。そしてミディアムは睡眠中、理性的な人間脳がはぎ取られ、動物脳だけが覚醒した状態にある時に、ピダハンが見ていた人の眼には見えない何かと交信(チャネリング)しているのでしょう。遺伝情報として動物脳に刻印された生まれる前の記憶を夢に見る可能性もあります。

 といって、著者ワイス博士が「人は輪廻転生している」と断言しているわけではありません。一人の患者と向かい合い、真剣なセラピーを繰り返した経過を報告しているだけです。そのプロセスを読み進むうちに、多くの読者は「自分の過去生は?」と思い始めてしまうのです。すぐれたドキュメンタリー・レポートこそが持つちからです。
ブライアン・L/ワイス著『前世療法』(PHP文庫/訳者あとがき)

 この、動物脳+人間脳という2種類のフェーズで脳機能を考えれば、普段、常識的には考えられないような不思議な出来事、超常現象も、かなりの領域までは説明が付くのではないかと思います。
 ここに書いたことは脳科学的には何の根拠もありません。私が勝手に考えた仮説です。でも、人間がコアに持つ動物脳の部分には計り知れない潜在能力(ギフト)がまだまだ秘められているのは確かだと思います。脳の最奥部にある動物脳に電極を当てたら、もしかしたら人間は超能力を自由自在に操れるようになるのかも知れません。

*『世界の終わり』

核兵器開発の遠因となったアインシュタインの特殊相対性理論=[E=MC2]。この公式は簡単に書けば、物が消えたら、その分のエネルギーが発生することを示しています。つまり、ダイナマイトなどの外からの破壊はたかが知れていても、内部からほどいてしまうと「もの」は消滅と同時に壊滅的なエネルギーを生み出すわけです。
ゆえに人間も、外部から攻撃(物理的に破壊)されるのではなく、「思考の原子」である言葉が頭の中で核分裂を起こして精神が内部からほどけてしまうと、連鎖的に人間社会が崩壊します。「真理」とは言葉の核兵器なのです。
私たちが普段「見ている」と思っている世界は、世界のありのままの姿ではなく、言語情報によって構築された二次的でバーチャルな記号化された世界です。簡単に言えば映画『マトリックス』のように、私たちは言語によって構築された仮想世界の中に閉じ込められています。
救世主・ネオが「マトリックス」の世界の仕組みを理解し、人間を仮想現実から解放したように、人々が言語発生の仕組みを理解することによって、言語情報が構築している二次的な世界が解体されると、人間社会から「言葉(マトリックス)」は消滅します。すなわち「すべての答え」が分かってしまうと世界は終わるのです。一言で言えば「世界の終わり」とは「言葉の消えた世界」です。
この世界から一切の抽象概念が消えて、人間が、みなピダハンのように「過去」という言葉も「未来」という言葉も持たない存在になってしまったら、比喩的な意味ではなく時間は止まります。なぜなら時間の存在すら言語(マトリックス)を前提しているからです。
アインシュタインは「過去と現在と未来の区別は、いかに根強いとはいえ、単なる幻想に過ぎません」と語りましたが、実際に、全人類の頭の中から時間の概念が消滅すれば、宇宙全体の時の流れも止まります。

 単純な思考実験をしてみて下さい。あなたは「時間」という言葉も「過去」「現在」「未来」という言葉も使わずに「時間」について、考えることが出来ますか?

 私たちが認識している世界は「自然」という第一次情報系の上に「言語」という第二次情報系をかぶせる二層構造の形で成立しています。「時間」は第二次情報系には存在しますが、第一次情報系には存在しません。すなわち第二次情報系が解体されれば「時間」も消滅します。
 私は、諸々の古代文明が予言する「世界の終わり」は「歴史が止まる」とか「時間の流れが止まる」というニュアンスではないかと思います。
以下の引用は、ネットで調べ物をしていたらヒットした記事です。この記事によって自分の仮説の裏付けをする意図はないのですが、興味を持たれる方も多いと思うので転載してみます。

……ほどなくマヤ文明研究の第一人者である、グッドマン、マルテイネス、トンプソンの三博士の研究によって、現在のグレゴリオ暦とマヤ長期暦との換算に使われる「GMT係数」なるものが発表された。現在に至るまでマヤ全土の遺跡調査と年代確定には、すべてこの係数が使われてきた。ところが、近年、このGMT係数が完全ではないことが指摘されるようになり、ついにマヤ暦研究の第一人者であるアメリカのロバート・ワナメーカー氏がこの間違いを認めることになった。
「世紀の計算ミス」の内容を大まかに説明すると、マヤ長期暦の1周期を約5000年としてグレゴリオ暦に換算した場合、4年に約1日増える“うるう年”を計算に入れていなかったというのだ。つまり、5000÷4=1250日もの誤差が出ており、誤差を修正すると、マヤ長期暦の終わりの日は、西暦2012年12月23日から1250日後の2015年9月3日になるというのである。
ただし、これは「人類滅亡の日」が単に3年延期になったという話にとどまらない。新たに出てきた「2015年人類滅亡説」は、思わぬ場所で波紋を呼んだのである。「マヤの人類滅亡の日」の修正に慌てふためいたのは、エジプトの研究者、それも古代エジプト暦の研究家たちだった。彼らはいったい何に驚愕したのか……。
時はいったん1970年にさかのぼる。エジプトの人々は、毎年氾濫するナイル川に悩まされ続けていた。それを解決するため、ナイル川上流に超巨大なダム、アスワンハイダムが建設された。しかし、その影響で古代エジプト文明の聖地とされていたフィラエ島のイシス神殿は半水没状態となってしまったのだ。この神殿は、エジプト神話の女神イシスが太陽神ホルスを産んだ場所とされていて、惨状を憂えたユネスコにより、1980年に神殿はアギルキア島に移築保存されるために徹底調査されることとなった。その結果、神殿の壁には1465体の神々が描かれていることがわかったのだが、このことがエジプト暦の研究者たちを震撼させた。
西暦550年に閉鎖されたこの神殿には、「この場所が閉鎖されれば毎年、秋分の日に一体ずつ神々の加護が失われ、すべての神々が去った年の秋分の日に世界が水没するだろう」という伝説が残っていたのだが、ナイル川の氾濫など毎年のことで、研究者たちも「神を粗末にすると報いを受ける」という伝承程度に受け止めていた。だが、1465体の神々が描かれていることがわかり、西暦550年から毎年、一体ずつの神々が去るとすると、なんと西暦2015年の9月に世界が水没することになる。
これまでエジプト暦の研究者たちは、マヤの人類絶滅予言と約3年のズレがあったことで、この伝説をさほど気に留めていなかった。ところが、マヤ暦のズレが指摘され、ふたつの暦の示す終末の日がピタリと一致することに気づき、一気に大騒動となったわけだ。そして今、エジプト暦の研究者たちは、この2015年世界水没説について本気で警鐘を鳴らしているという。
時代も場所も違うふたつの超文明の暦が示す「滅亡の日」の信じ難い一致。これは偶然というには、あまりにできすぎた話ではないだろうか。

(出典:『週プレNEWS』 取材・文/近兼拓史)

 私は「世界の終わり」とは『真理ウィルス(言霊)』のパンデミック(感染症の世界的流行)によってもたらされるものだと思います。「水没」というのは恐らく比喩です。つまり、ハードウェアとしての世界が終わるのではなく、ソフトウェアとしての文明がゼロに戻る。
 ピラミッドが建造されたのが約5000年前で、マヤ長期暦が約5000年。一つの文明は5000年のサイクルで一巡するのではないでしょうか? そして、その世界のはじまりから終わりまでのタームを古代の人々が知っていたとしても、少なくとも私は不思議には思いません。
 現代の常識的な科学で考えると、古代科学の原理は謎ですが、もしかしたら古代の人々にとって、文明の栄枯盛衰(えいこせいすい)は科学的なサイクルだったのかもしれません。
今、私が、もうすぐ世界が終わると叫んでも、ほとんどの人には信じてもらえないだろうし、終わって欲しいと願っているわけでもありませんが、もし、この本が、どこかの時点で起爆(拡散)すれば、近い将来、現代社会は完全に崩壊するだろうな、と少なくとも私は確信しています。
想像してみて下さい。もし、近い将来、この本が世界中で読まれるようになり、「ハリーポッター・シリーズ」のようなブランド力(価値)を獲得することによって、人々が結婚制度(一夫一婦制)や国家システム(議会制民主主義)を信じなくなり、科学(理論)が終焉を迎える日のことを。ラブ・ソング(恋愛幻想)とヒューマン・ドラマ(心の謎)が消えた街を。神のいない(誰も信仰を持たない)、争いのない(意見対立のない)社会を。人間が言葉によって作り上げたものすべてが解体され、時の流れを失った世界を。
技術的/実務的/日常的なこと以外、考えるべきことがなくなった時、世界は確実に終わります。

*『宇宙の正体』

私は神がどういう原理にもとづいてこの世界を創造したのかを知りたい。そのほかは小さなことだ。私は神のパズルを解きたい。
---アルバート・アインシュタイン(1879-1955)

 あなたは「宇宙とは何か」「時間とは何か」「宇宙の果てには何があるのか」「宇宙とは、どのように誕生したのか」本気で考えたことはありますか? とりあえず、ウィキペディアで「宇宙とは何か」お手軽に調べてみると、こんな「答え」が書いてあります。

あらゆる存在物を包容する無限の空間と時間の広がり。あらゆる物事(森羅万象)を含む全ての存在。

 「万物を包括する」という意味での「宇宙」は、普通これ以上定義しようがないのですが、私なりに考える「宇宙」をここに書いてみたいと思います。
 人間には脳に埋め込まれた二つの思考パターン(言語というデジタル・プログラムのアルゴリズム)があって、一つは、すぐに「始点」を考えたくなってしまう傾向。もう一つは「細分化」したくなってしまう傾向。
 「始点」とは例えば「生命のはじまりとは何か?」と、つい考えてしまい「なぜ、どうやって生命の源(みなもと)が発生したのだろう? そのはじまりって何だったんだろう? じゃあ、その生命が出来る前、地球のはじまりって何だったんだろう? ん? じゃあ、そもそも宇宙のはじまりは……?」と、どんどん「はじまり」を考えたくなってしまう傾向/衝動。
 もう一つの「細分化傾向」は「物質とは何で出来ているのだろう?」と考え「物質は分子から、分子は原子から出来ている。じゃあ、原子は何で出来ているのだろう? うん、そうか、原子は原子核と電子で出来ている。ん? じゃあ、原子核と電子は何から出来ているのだろう? そうか! すべての存在は超ひもの振動によって形成されているのだ。じゃあ、そもそも超ひもは何で出来ているのだろう?」と、延々と対象を細分化したくなってしまう傾向/衝動。
 前者の「始点マニア」の極がビッグバン論者で、後者の「細分化マニア」の極が素粒子物理学者です。
 なぜ、人間がつい「はじまりとは何か」と考えてしまうかというと、人間が認識するものには、すべて物理的な端っこがあるからです。道路にも端っこはあるし、定規にも端っこはある。でも、その端っこがないものが二つだけある。一つは精神で、もう一つが宇宙。精神は眼には見えないので、端っこがなくても、科学者はあまり深く考えようとはしませんが、宇宙は一応、眼に見えるので、どうしても宇宙の果てには何があるのか探究したくなってしまう。
 人間が「はじまりとは何か」と考えてしまうもう一つの理由は、自然界と違い、人間界には時間、すなわち過去と未来があるからです。だから、つい「はじまり」という考え方をしてしまうのですが、人間が生まれる前と死んだ後には時間が存在しない、ということは、みなさん、漠然とイメージしやすいのではないかと思います。時間というのは外部世界に自存して流れているわけではなく、人間の頭の中でのみ流れている概念(情報)です。
「何もない無の中で大爆発が起こり時空間のすべてははじまった」。そんなストーリーを描く「ビッグバン理論」という名のファンタジーは、常に「はじまり」を考えてしまう人間の思考パターンにぴったりなので、多くの人が信じたくなる気持ちも理解出来ます。
 でも、そういう風に考えてしまうと「じゃあ、ビッグバン(インフレーション)の、さらに前の無って何だろう?」と悩むハメになります。けれども、過去から未来へと進む時間そのものが存在しないと考えれば、頭の中をすっきり整理することができる。
大好きな恋人とデートしている時、夢中になってゲームをしている時、誰にでも「時が経つことすら忘れた」という経験があると思います。でも、それはあなたが外部世界の時間の経過を忘れていたわけではなく、あなたの頭の中で、没頭している事柄以外の情報の変化がストップしていたのです。つまり、時間はあなたの「中」で流れているのであって、「外」で流れているわけではないのです。「中」の流れが止まれば「外」の流れも止まります。
情報量が多く、変化の激しい都会にいると時間が早く流れます。変化が少なく、大らかな大自然の中にいると時間はゆったり流れます。それは時間が外界にではなく、外界を認識しているあなたの脳の中で流れているからです。つまり「時間」の正体とは、脳の中で起こっている情報の変化なのです。厳密に言うならば「記号情報」の変化。「記号情報」は人間の脳の中だけにしか存在しません。なぜなら「言葉」を持っている生物は人間だけだからです。
アインシュタインは、そもそも「光と同じ速度で移動すると、光はどの様に見えるのか?(光の矢に乗って光を見たら、光は止まって見えるの?)」と考えたことから「相対性理論(特殊相対性理論)」という哲学を編み出すに至りました。「相対性理論」とは、ごく簡単に言えば、観測者の立ち位置によって時間は速くなったり、遅くなったりする(時間は宇宙全域において絶対的/均一に流れているわけではない)という考え方です。でも、アインシュタインは「じゃあ、観測者が消えたら光はどう進むのか?」「物質の存在しない宇宙空間では、時間はどう流れるのか?」とは考えようとしなかった。
相対性理論が適用されるのは、言語を有し、過去と未来を持つ人間の世界のみです。人間のいない自然世界では時間は流れていない。犬も昔起こった出来事を記憶し、ご主人様の帰宅時間を予測して玄関で待つこともあるでしょうが、犬はシチュエーション(状況)を記憶/認識しているだけであって、犬が脳の中で時を刻んでいるわけではない。犬もピダハンと同じように、過去を悔いることもないし、未来を憂うこともない。
人間のいない宇宙には「宇宙の誕生(過去)」も「宇宙の終焉(未来)」も「宇宙の果て(境界)」も「次元(時空の相違)」も、そして物質の最小単位としての「アトム」も存在しません。なぜなら、そうした概念のすべては言葉(記号)に過ぎないからです。「それ以上分割出来ない最小の物質」を追い求めるのも、人間の一つのロマン(素粒子物理学者の見果てぬ夢)です。でも「分割」「最小」という概念は、数学的(抽象的)な概念であって、物質的(実体的)な概念ではありません。カマボコだろうが、チーズだろうが、理論的には包丁で無限に細かく刻んで行くことは可能なわけですから、いくら血眼になって物質を細分化しても(より小さな物質を発見しようとがんばっても)「最小」に辿り着くわけがないのです。太陽と同じサイズの人間から見たら、あなたは「最小物質」かも知れないし、大腸菌と同じサイズの人間から見たら、あなたは「宇宙の果て」に見えるかも知れない。「大腸菌/人間/太陽」とビジュアルでイメージしてしまうから、サイズを比較してしまうけれども、言葉がなければ、その境界は消えます。「大きい」「小さい」「速い」「遅い」「はじまり」「終わり」「有限」「無限」という思考のベクトル自体が、人間特有の偏見(バインド)でしかありません。
脳の中で言語プログラムをOSとして、ビジュアル・データ・メインで情報処理を行っているから、あなたは今、あるような形で「宇宙」を認識しているけれども、生まれた時から目の見えない人の頭の中にある宇宙の姿、微生物が認識している宇宙の姿をあなたは知らない。
「宇宙はあなたの頭の中だけに存在している」と言っているわけではありません。物理的実在としての宇宙は確かに存在します。でも、あなたが「宇宙」という言葉で表現し、思考の対象としているものは、あくまで言語によって二次的に構築された宇宙(バーチャル・リアリティー)でしかない、ということです。「マトリックス」の外に出ない限り、「マトリックス」の仕組みは絶対に分からない。「マトリックス」の中にいる人に、いくら「これは仮想現実なんだよ」と説明しても、決して信じようとはしないでしょう。
恐らく、物理学者(科学者)がこの本を読んでも、彼らは自分の頭の中にある世界観を死守/固持しようとするでしょう。かつて、誰もが地動説を否定し、決して新しい世界観を認めようとはしなかったように。でも、どのような物理法則であろうとも「普遍的」「客観的」ではあり得ないのです。なぜなら、脳の中から言葉を消し去らない限り、すべての物理現象(認識/思考の対象)は、科学者の「視点(偏見)」というものが、必ず前提されてしまうからです。もし、本当に普遍的/客観的な物理法則が知りたいのなら、言葉(色眼鏡)を持たない動物の眼と頭で世界を観察するしかない。
生物の中で唯一、人間のみが持つ「知性(言葉)」とは世界を知るための武器ではなく、世界を迷宮化する魔物です。
アインシュタインであれ、スティーヴン・ホーキングであれ、どんな天才であっても、言葉を使わずに宇宙について考えることは出来ません。過去、言葉を使わずに宇宙について考えることが出来たのは、釈迦だけです。でも、釈迦は自分の見た(知り得た)宇宙を、言葉を使って他者に説明する(伝える)ことが出来なかった。だから「悟れ」と言ったのです。
「宇宙とは何か?」と問い「宇宙とは28次元に存在するマイクロ・チューブル構造を持ったセントラル・ドグマである」といった、もっともらしく、難しく、かっこいい答えが返って来た方が、何だかよく分からなくても納得しやすいと思います。でも、常識的な世界観をすべて捨て去ってしまわなければ「宇宙とは何か?」という問いの本当の「答え」はわかりません。
今、あなたは「結局、何だかよく分からん」と感じていることでしょう。当たり前なのです。新しいOSで古いOSの作業をする(バージョンを合わせる)ことは出来ますが、古いOSで新しいOSの作業をする(新機能を使う)ことは出来ないからです。
もし、脳の中の古いOSを書き換えることができない(雑念、とらわれから逃れることができない)ならば、そして、もし、本気で新しいOSを脳にインストールする(悟りを開き、真理を見極める)ことを望むならば、頭の中からすべての言葉を消し去って下さい。座禅を組む必要はありません。この世界にどうやって言葉が生まれたのか、真剣に考えてみればいいだけです。もし、参考書が必要ならば『THE ANSWER』を読んでみて下さい。「言葉が生まれた仕組み」を理詰めで理解した時、はじめてあなたは「マトリックス(言語によって構築された仮想現実)」から抜け出すことができるでしょう。

*『新世界』

「地球がみるみる小さく……そして太陽系が……」
「何億もの星の中へまぎれてしまい……その銀河はうねりながら、何十何百何千と群をなして……大宇宙を作っています」
「知ってる……宇宙はここまでだ。これでおしまいなんだ」
「これが人間が知っている宇宙の全部の姿よ。でも、もっと大きなものが……宇宙を包んでいるのよ。すでに次元を超えています。宇宙はひとつの粒子にすぎないのです。宇宙がいくつも集まってひとつの細胞のようなものを作っています。その細胞が集まってひとつの『生き物』を……」
「まってくれ。宇宙は……結局『生き物』の一部なのか。その『生き物』ってなんだ?」
「宇宙生命(コスモゾーン)なのよ」
「宇宙生命(コスモゾーン)! もうやめてくれ!! ぼくにすこし考えるゆとりをくれっ!!」
「極大のものから極小のものまで、みんな『生きて』活動しています。地球は死んではなりません。『生き』なければならないのです。なにかが間違って地球を死なせようとしました」
「なにが間違って?」
「『人間』という、ごく小さな『生き物』です。人間を生み出して進化させたのに、その進化のしかたが間違っていたようです。人間を一度無にして、産みなおさなければならないのです」
「だが、ぼくがなぜ選ばれたんだ。ぼくは、ただの……」
「もう一度、人間は新しく生まれて新しい文明を築くのですよ」
手塚治虫・作『火の鳥/未来編』(朝日ソノラマ)

 もし、人間が生まれ変わって、今とはまったく別の新しい文明を築くとしたら、それはいったいどんな社会になるでしょうか?
こういう表現はすごく珍妙に聞こえると思うので、あまりしたくはないのですが「世界全人類が悟りを開いた世界」を想像してみて下さい。私が考える「新世界」とは「全人類が釈迦の境地で生きる世界」です。釈迦の境地で生きるということは、イライラせずに穏やかに暮らすことを意味するのではないし、決して怒らず、笑顔を絶やさないことを意味するわけではありません。全人類がニコニコ優しい世界なんて気持ちが悪いし、釈迦にもしっかりと喜怒哀楽はあったと思います。もちろん、物事に動じない達観はあっただろうけど、完全に感情の起伏が消えたら、ただのマシンになってしまう。いくら無心、無我の境地を得たとは言え、出来の悪い弟子の言動に苛立ち叱り飛ばすこともあれば、愛弟子の死に泣き、悲嘆に暮れることもあったでしょう。
ごく簡単に言えば「悟り」とは真空状態の心を得ることではなく、物事の見方、考え方、捉え方を変えること意味します。そのための手段として、いったん、頭と心の中を完全に空っぽにしてしまう必要があるのです。「釈迦の悟り」「禅寺の座禅」という言葉を聞くと、直感的に「無の境地!」というイメージをしてしまう方が多いと思いますが、「無の境地」に至るために修行をするわけではないのです。俗世の世界観を払しょくして頭の中をリセットし、曇りのない、まっさらな眼で世界を観るためのプロセス(過程)として、いったん「無の境地」に到達する必要があるのです。
全人類が悟りを得ても、誰だって腹が減ればイライラするし、悪口を言われれば腹も立つし、親しい人間が亡くなれば悲しみの底に沈みます。それは人間が生きて行く以上、当たり前のことです。
でも、例え世の中から怒りや憎しみや悲しみが消えなくとも、全人類が理詰めで悟りを開けば、少なくとも戦争の起こらない、永久平和の社会が到来します。「全人類が悟る」とは「全人類の世界観と価値観が変わる」ことを意味します。
 もっと具体的に表現しましょう。「新世界」とは、必要最低限の情報のみで形成された社会、みんなの頭の中がスッキリ、シンプルな社会、人間も地球もストレスを抱えない、誰もが自然体で健全に暮らす社会です。「新世界」には過去も未来もなく、誰も時間に追われることはありません。
「その世界にも所有/非所有の関係、富める者と貧しい者の格差があり、やがて争いが生まれて、人々は殺し合うだろう」と考える方も多々いらっしゃると思います。でも、社会(組織)運用システム(意思決定プロセス)としての「QAS」の使用がコンセンサスになれば、意見は対立せず、争いも起きず、余計なことは考えなくても社会は自動的に回って(循環して)行きます。「新世界」にも流通貨幣はあるかも知れない。でも、「QAS」があれば社会主義も資本主義も独裁主義も民主主義も国家も国連も必要ない。「システム」と呼び得る構造は「QSA」が一つあれば、事足りてしまうのです。なぜなら、誰もが同一の(統一された)思考プロセスで意思決定を行えば、家庭内の問題から世界経済の抱える問題に至るまで、人間と人間(思考と思考)の間に原理的に対立は発生しないし、対立がなければ議論する必要もないからです。
 「新世界」でも感情的になって人を殴る人も、人を殺す人もいるでしょう。でも、その人をロジックとして裁くシステムは全人類共通です。全人類が悟りを開けば、独裁者も汚職も法制度の不備も消えるから大丈夫です。
 「新世界」を作るための手段はただ一つ。世界中の人がこの本を読んで、内容を理解すればいいだけです。
 全人類が悟りを開くなんて不可能だし、だいたい、おれ自身、悟りを開けないし、開く気もないし、新世界になんて行きたくない。と考える方も多々いらっしゃるでしょう。
 でも、ちょっと考えてみて下さい。多くの人は、みんなが「AKB」を応援すれば自分も「AKB」を応援するし、みんなが「ムラカミ・ハルキ」を読めば自分も「ムラカミ・ハルキ」を読むし、みんなが「天動説」を信じていれば自分も「天動説」を信じるし、みんなが「ビッグバン理論」を信じれば自分も「ビッグバン理論」を信じるし、みんなが「スマホ」を使えば、自分も「スマホ」を使うのです。つまり、一切、何も考えず、何の努力をしなくても、みんなが悟りを開けば、あなたも悟りを開いてしまうのです。
 「新世界」はブーム(時代の流行)によって作られます。私は、「悟り」を流行らせるための種まきをしているに過ぎません。
 「悟り」と言ってしまうと、何だか垢抜けないし、今ひとつ、かっこよくないけれど、キリスト教的に表現すれば、その現象は「アセンション」だし、SFテイストに表現すれば「ニュータイプへの進化」です。
 もしくは「新世界」について、このように説明することも出来ます。
今、私以外の世界全人類は、観客席に座ってマジック・ショーを観ています。私は、マジック・ショーの舞台裏から観客席に座る人々を観ています。あなたが椅子から腰を上げさえすれば、舞台裏に周り、マジックの種明かしを知ることは可能です。でも、一度、マジックのカラクリを知ってしまったら、もう観客席には戻れない。この本を読んでしまった以上、あなたは選択しなければならない。虚像と幻影の中で、真実の世界を否定したまま生き、そして死ぬか? それとも、自分の力で魔法を解いて、新しい世界へと足を踏み出すのか? あなたに選択する意思さえあれば、今すぐにでも脳を覚醒させて、ニュータイプへと進化することは可能です。
今、私は究極のマイノリティー(非常識)です。でも、いつか、遠くない未来、私の物の見方、考え方がマジョリティー(常識)になっていることは断言してもいい。なぜなら、現代社会においては、もはや誰も「天動説」を信じていないからです。やがては同じことが起き、全人類はニュータイプへと進化する。早いか、遅いか、先に行く勇気があるか、後からみんなにくっ付いて来るかの違いだけです。でも、今、私はとても孤独です。正直に告白すれば「仲間」が欲しい。あまり早く「仲間」になってしまうと世間との齟齬(ギャップ)が生じてしまうので苦労、苦悩、葛藤も大きいとは思いますが。
『マトリックス』という映画の冒頭で、モーフィアスという人物が主人公・ネオにこう尋ねます。

「ここに2つの薬がある。赤い薬は、真実を知る薬だ。青い薬を飲むと、すべてを忘れ、もとの世界に戻る。 さぁ、ネオ、どっちを選ぶのかね。 赤い薬か、青い薬か・・・」

さあ、あなたは「赤い薬」と「青い薬」、どちらの薬を飲みますか?
 「青い薬」を選ぶなら、今、ここでこの本を閉じて、内容をすべて忘れてしまえばいい。でも、もし「赤い薬」を選ぶ勇気があるのなら、次のページをめくって下さい。そこには、きっと、あなたの知らない、さらなる新世界が待っています。


 

Amazonでの購入はこちら

【定価】1,620円
【発行】2015年3月11日
【総ページ数】221ページ
【版元】青山ライフ出版
 
Amazonへ
 


各章へジャンプ