HEART MAKER BLOG

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もし、この本を世界中の人が読んだ時点で世界平和が実現していなかったら私の命を差し出します。:著者

Ω:ラスト・メッセージ

 
*『サイキック』

私が、ここに書いている文章が、人々が幸せに生きるために、生きて行くことを少しでも楽にするために、彼らが私の口を借りて伝えようとしている言葉なのか、それとも、私の単なる勘違い、思い込みなのか、それを判断する(決める)のは著者である私ではなく、むしろ読者だと思う。
もちろん「コネクター」としてPCのキーを叩いているのは「鈴木剛介」なので、私の体験やボキャブラリー、文体のクセ、リズムは文章に反映されます。
実際に何かが見えているわけでも聴こえるわけでもないし、ただ、言葉が流れ出して来るだけ。自分の意志とは無関係に言葉が削られたり、補足されたりして、勝手にどんどん文章が整理整頓され、完成して行く。書こうと思って意図して書いている文章ではないのだけど、どこまで自分の意思が介在しているのか、よく分からない。
私にとって「そっちの世界」とのコネクトは一方通行なのです。こっちの意識をそっちに向けることはまったく出来ないのだけど、あっちから色々なものが、勝手にどんどん送り付けられて来る感じ。私は、そっちの人に何かを訊ねたり、確認したりすることが出来ないから、自分の置かれた状況を理解/把握することが出来ない。
スポーツが得意な人の中に、ボクサーもいれば、水泳選手も、卓球選手も、ランナーもいるように、サイキックの中にも、予知が得意な人、前世記憶がよみがえる人、透視が出来る人、霊がビジュアルで見える人、等、それぞれ得手不得手があるのだと思う。私の場合は、自分の意志とは無関係に「あっちの都合」で宅急便が後から後から送られて来るだけ。開けて、組み立ててみないと中身が何なのか分からない。説明書も入っていない。説明書なしで、ややこしい機械を組み立てるのは大変なのです。「宅急便」はもちろん比喩(今、降りて来たイメージ)だけど、たぶん、そういうことなんだろうと思う。商売にはまったく使えない能力(笑)大洪水を予知することしか出来ない。
盲目的な信仰を除けば「理解出来ない不思議な現象」「理詰めで説明出来ない感覚」に自信や確信を持つのは、実は、とても難しいことなのです。なぜなら、現代社会においては「こうこうこうだから、こうです」という形で筋を通して説明しないと他者には何も伝わらないから。現代社会は、理論やロジックの齟齬、矛盾を決して許さない。私が書いていることは、支離滅裂だという自覚はあります。でも、同時に、自分が(何かが)「正しいことを語っている」という感覚もまた、強くある。
唯一、100%の確信を持って言えるのは、2年前、寒い寒い真冬の奥多摩で、私は何か超自然的な体験をした、ということだけです。
私は、自分が「全知」だと思っていたし、今でも分からないこと、知らないことはないと思っています。でも、最後の最後まで解けなかった謎が「自分は何者なのか?」という問いでした。45年間掛かって、ようやく自分をアイデンティファイ出来た気がする。同時に、ある意味では、もう私には「自分」というものがないのだと思います。(鏡で見慣れた自分の顔を見ても、もはや知らない他人に思える)
この本を書いたのは結局のところ誰なのか? やはり、どう考えても著者である「鈴木剛介」という人間でないことは確かなのではないかと思います。
自分が書いた文章じゃないから、後からこの原稿を読み返していると「ああ、そうか、なるほどな。確かに、確かに、その通りだ」と、うならされること、気付かされることがたくさんある。そして、この本の内容を一人でも多くの人とシェア出来たらいいな、と思う。
2年前から、私にひっきりなしに原稿を送り付けられて、ほとほとうんざりしていた方もたくさんいらっしゃると思いますが、手を変え品を変え、ただ「真理(正しい言葉)」を人々に伝えようとしていただけなのです。私が、ではなく、彼らが。
そして、その「メッセージ」を誰一人、受け取ってくれなかったからこそ、伝達能力を上げるために原稿が進化して行った部分も少なからずある。「これでも伝わらないのか?」「これでも伝わらないのか?」2年間、その作業の繰り返しでした。
私にこの本を書かせた「霊的に大きな存在」というのがいったい何者だったのか、ということは今でも分からない。ただ、霊的な世界において、中心的な役割を担っているコアな人々(集団/集合体)なのだろうとは思います。で、そういう(眼には見えない)人たちに「ちょっと、助けに行ってやってくれ」と頼まれて、私のところにサポートに来てくれた守護霊が「ばーちゃん(母方の祖母)」。最後の方には父方の祖母も来てくれました。
「もう、ダメです。限界です。許して下さい。解放して下さい」という悲鳴を、心の中で何度も上げていたのだけど、その都度「辛いだろうけど、がんばんなさい」「辛いだろうけど、がんばんなさい」という、ばーちゃんの優しい声だけは、ずっと聞こえ続けていた気がする。
まるで永劫の輪廻に閉じ込められたように長い長い旅路でした。ちなみに、私はこの本の執筆中、煙草は死ぬほど吸ったけど、酒は一滴も飲んでいません。下戸(げこ)で良かったと思う。もし、酒に逃げていたら、間違いなく重度のアル中、廃人になっていた。むしろ、精神を病んでいた時の方が、生きて行くことははるかに楽だった。
普通の人間は、ごく稀に訪れる(降って来る)「閃き(霊からの贈り物)」を待ちますが、私の場合は24時間「閃きっぱなし(贈られっぱなし)」で、頭の中にある栄養分がすべて吸い尽くされ、リアルに脳がひからびたスポンジのような状態でした。精神的なストレスはないのだけど、常に脳が全力でフルマラソンを走り続けているような状態で、物理的/身体的に「食べられない」「立っていられない」という時もよくありました。
「閃かないで下さい! もう、閃かないで下さい!」と、いくら必死にお願いしても、その願いは決して聞き入れてはもらえない。まさにこの文章を書いている今も、現在進行形で閃き続け、加筆改訂を繰り返している。まだ、許してもらえない。究極(=天界)のブラック企業で働かされている、たった一人の社員(もちろん無給)、みたいな感じ。ニコチンと音楽(宇多田ヒカルの『First Love』)と子どもが縁日ですくって来た金魚がささやかな慰めです。
よく「人間は脳機能の10%くらいしか使っていない」という表現をするけど、人間の脳機能を90%くらい解放すると、私のような状態になるのだと思う。この本は、そうした人間の脳を抑制している「リミッター=バインド」を外す(解体する)ためのツール(アンインストール・ソフト)でもある。
前のチャプターで「大洪水は100%来ます」と言い切っています。「鈴木剛介」という生身の個人としては「本当に来んのかよ?」という思いというか疑念はあります。でも、「100%来るって言え! ちゃんとハッキリ言い切れ!」と、言わされている感じなのです。で、確かに「本当に来るのかなあ? 来ないのかなあ? 実際に来てみないと分からないし・・・」と煮え切らないでいるより、「ああ、そうか! 絶対に来るんだ」と割り切れてしまった方が、気分もすっきりして楽は楽なのです。少なくとも私は。

*『脱洗脳マニュアル』

 私は、上記までの文章を書いた後、一時断筆して蓼科の山の中で、言葉を持たない自然(樹木や緑、光、風、大気、大地、そして空)とだけ交流していました。頭の中の言葉をすべて消し去り、ただ、そうした自然の中に溶け込み、「気」と「気」のやりとりをしていた。そうした体験(交信)の中で、より多くの事象がクリアに見えて来るようになりました。
「霊界とのコンタクト」といった話を読むと、多くの「まっとうな」方は、いかがわしいと頭から馬鹿にはしないまでも、どう受け止めれば良いのか判断が付きかね、困ってしまうと思います。でも、実は「霊能」「降霊」「サイキック」「気」「風水」「陰陽」といった超自然現象(眼には見えない特殊能力)というのは、実際に存在するし、原理(メカニズム)さえ理解すれば、人間が脳に初期搭載している、誰でも使える能力(技術/テクニック)なのです。機会があれば、ホワイト・ボードを使って10分ほどで図解して説明することは可能ですが、文章の流れが錯綜してしまうので、ここでは割愛します。また、大洪水を引き起こす「地球の重力変化」や「太陽系惑星の軌道変化」という現象もホワイト・ボードを使って理論的に(科学的にも陰陽としても)検証することは可能ですが、それも割愛します。
この本を締めくくるにあたり、私が最後にみなさんにどうしてもお伝えしておきたいのは、

「死とはゴールではなく、スタートである」

と、いうことと、

「私たちが日常生活を送っている、この物質世界の方が『仮想現実(バーチャルリアリティ)』であり、死後の世界が『本当の世界(リアルワールド)』である」

と、いうことです。
こうした言説が、先進国の一般常識的な世界観の中では、いかがわしいスピリチュアリズムに聞こえてしまうことは重々、承知しています。でも、例えば、まだ文明化される前のピダハンやネイティブ・アメリカン、イヌイットといった自然と共生していた人たちにとって「精霊的な存在(肉体を持たない霊魂のようなもの)」や「シャーマニズム(霊界との交信)といったトピックは、ごく日常的な常識的世界観だったのです。そして、私は、すべての事象を可視化(言語化/数式化)出来るマテリアルに還元して世界を説明しようと試みる現代科学よりも、自然に溶け込み、大自然と共に暮らしていた人々の方が、現代文明社会に生きる人々よりも、はるかに「世界の本当の姿」を知っていたのだと感じます。
この本を読んでいる読者は、恐らく自覚していないと思いますが、この世界に住む人々は、みんな二つの「宗教」に入信している信者さんたちです。みなさんが信仰を捧げ、盲目的な従属を誓っている宗教は「科学教」と「経済教」です。世界全人類、70億人が「オウム真理教」に入信しているようなもの。「オウム真理教」の信者さんたちも、花壇の花に水を与え、友と愛について語り、世界の平和を心から願ったこともあったでしょう。そして、自分が「正しいこと」をしていると信じ、地下鉄にサリンをまいた。みなさんも同じです。自分は「正しい」ことをしていると信じ、世界中にサリンをまいて、そのサリン・ガスの中で子どもを育て、自覚症状のないままにサリンの毒に侵されながら日常生活を送っている。
社会問題化する前の「オウム真理教」の信者さんたちに、いくら「あなたのしていること、考え方は間違っている」と説き伏せようとしても、彼ら(彼女ら)は、決して自分たちの「信念」を曲げようとはしない。なぜなら、自分たちが信仰する世界観の中で生きている方が、彼らにとっては「楽」だからです。
あえて言わせて頂きます。『ハートメイカー』は、70億人を「オウム真理教(科学教/経済教)」から救い出すための「脱洗脳マニュアル」です。

*『死の価値転換』

図らずも「霊的に大きな人々」が私に、きちんと教えて(知らせて)くれたように、「前世」も「死後の世界」も、ちゃんと存在します。
普通の常識的な人は「スピリチュアルな世界」を「あるのだかないのだか分からない、いかがわしい世界」と感じているけれど、実は、私たちが物質的に現実生活を送っているこの日常世界の方が、ディズニーランドや映画館のアトラクションのようなもので、アトラクションが終わったら、みんな、遊園地を出て家に帰る。その遊園地を出てからの現実世界が、死んだ後の世界です。
?もしくは、こう表現することも出来る。
私たちが日常生活を送っているのは、言うなれば、ボクシング・ジムで行っているトレーニングのようなもので、実際の試合会場が、肉体が死んだ後の世界。トレーニングをさぼっていた人は、それなりの試合しか出来ないけど、ジムで、ちゃんとしっかりトレーニングを積んでいた人は、いい試合が出来る。
?みんな、こっちの生活空間が「現実」で、あの世が仮想現実と思っているけど、逆です。こっちの生活空間が仮想現実で、死んだ後の世界が「本当の現実」。?
「肉体の死」というのは、人生最大のビッグイベント(クライマックス)ですが、「死」という概念の捉え方が変わると、人間存在、人生観が180度、変わります。
「死」が人生のゴールではなく、本当の世界のスタートだとすれば、「死」は悲しむべきことでも、恐れるべきものでもなく、むしろ、解放であり、旅立ちです。
こうした世界観を、みなさんに押し付ける気も、強制する気もないし、信じろとも言わない。
死んだ後になって「ああ、ゴースケが言っていたことは正しかったのだな。こういうことだったのか!」と、きっと分かるから。?
ただ、こっちの世界は単なるバーチャルリアリティで、肉体が滅び、物質世界から解放された後、自分(の霊魂)が本当の世界にシフトすれば、そこは、何も考える必要のない、気に病むこともない、ストレス・フリーで居心地の良い場所、と思って生きていると、この物質世界(浮世)で、気楽に肩の力を抜き、心からリラックスして暮らすことが可能になります。?
極端な言い方をすれば、戦争が起ころうが、大洪水が来ようが、近親者が亡くなろうが、自分が死のうが、それは、あくまで仮想現実の中で起こっているアトラクションでの出来事に過ぎない。そう考えれば、何が起こったとしても、そんなにムキになって、頭をキリキリ悩ませる必要もないのです。肩もこらないし、お金がなくたって、楽しく生きて行くことは出来る。
本文の繰り返しになってしまいますが、人間の人生は「死」があるから、限定され、生き辛く、苦しいのです。「死」という理解不能で不気味な断絶、人生の終焉を、きちんと理解/把握することが可能な現象として認識することによって、例えば、老人ホームで、寝たきりのまま、ただただ日々、死を待つことしか出来ないお年寄りや、がんや白血病、生まれついての不治の病を患い、ホスピスで死を待つ人々、戦争や震災で愛する近親者を失い絶望に暮れる人々、もしくは、生きることにストレスを抱え、毎日、辛い日々を送る人々、いずれ訪れる死に怯え、死を恐れる人々の「死生観」を根底から変え、救済することが出来る。
?実は、肉体が生きている間に「死後の世界」を実体験する方法が一つだけあります。瞑想する必要もないし、ドラッグでトリップする必要もない。もっと、科学的で現実的な手段です。
具体的に書きましょう。
 まず、夜になったら普通に家で眠って下さい。そして、眠っている間に、事前に頼んでおいた麻酔科の先生に頼んで全身麻酔を打ってもらい、外界から完全に遮断された、真っ暗闇で、何も聞こえないカプセルの中に閉じ込めてもらって下さい。出来れば浮力の強い液体の上に、身体を浮かせてもらっていれば一番いい。唯一のルール。外界にいる人は一切、カプセルに干渉してはいけない。そうすれば、あなたは、眠りから目覚めた後、ただ放置された、真っ暗闇で何も見ることも、聞くことも、触ることも出来ないカプセルの中で、やがて時空間を消失し、肉体(物質)としての脳とは切り離された、純粋な自分の意識体(霊魂)の存在を感じることが出来るでしょう。
物質(肉体)としての「脳」がなければ、意識も記憶も存在するわけがない、というのが現代の常識的な世界観です。でも「意識とは何か?」「脳は、どのようにして意識を生み出すのか?」完璧に説明することの出来る科学者は、この文明社会には存在しないのです。
 外界の「時計」で24時間も経過すれば、恐らくは、カプセルの中にいるほとんどの人は、自分の置かれている状況が把握出来ずに極度のパニックに陥ると思いますが、もし、そのパニックを乗り切り、すべての雑念(とらわれ)から解放されて、心(意識)が完全に澄み渡れば、あなたもリアルに「霊界」と交信出来るかも知れない。
 日本からカナダに単身で海外赴任しても、日本に残した家族が心配で、まめにメールでコンタクトを取る人もいれば、ラスベガスに遊びに行ったきり、家族の存在を忘れて、ギャンブルに没頭してしまう人もいるように、霊界にも、行ったきりで楽しく暮らしいる人々もいれば、こちらの世界に残して来た人のことが心配で、いつも気にかけ、守護したり、メッセージを届けようとしている霊もいるのです。
この世界が「現実」だろうが「仮想現実」だろうが、死後の世界があろうが、なかろうが、どうでもいいと思うかも知れません。そんなことよりも、受験勉強をしなければならない。明日の企画会議で提出する書類を作らなければならない。今晩の献立を考えなければならない。ツイッターでも呟かなければならないし、ブログの記事やフェイスブックも更新しなければならない。ややこしいことを考えるよりも、せめて気分転換に発泡酒を飲みながら、録画しておいた海外ドラマを観てから寝たい。そう思うでしょう。
現代社会に生きる人は、大なり小なりストレスを抱え、金と時間と情報に追われ、心のどこかで、そうした社会に疑念を感じながらも、目先10センチのことだけを考えて毎日を送っています。
1キロ先まで見通して生きろ、とは言わない。でも、寝る前の5分でいい。もし、明日、突然、愛する妻や夫や子ども、恋人や親友を失ったら、もし、年老いた親が老人ホームで息を引き取ったら、そして、もし、次の瞬間、自分が事故に遭い、瀕死の重傷を負ったら・・・。真剣に思いを巡らせ、「死」という現実に向き合った自分が「死」を、どう受け止めるのか、考えてみて下さい。その時、はじめて私が語る言葉の重さ(意味)に気付くと思います。

*『霊界の誕生』

 元々、この世界には「眼に見える世界(物質世界)」と「眼には見えない世界(霊的な世界)」の区別はありませんでした。生物、動物も、霊的な、神的なるもの、八百万の神は共存し、万物に精霊は宿っていたのです。ところが、サルの頭の中で、聴覚と視覚が偶発的に連合することにより言語(言葉)が発生し、徐々に、「眼に見える世界」と「眼に見えない世界」という区分が出来て行き、現在、70億人が膨大な言語、理論、論理、理屈、すなわち「情報」と呼ばれるものすべてを共有することにより、「眼に見える世界」と「眼には見えない世界」の間に、分厚く、強固な「言語(情報)シールド」とでも呼ぶべきような「壁」が出来てしまい、「霊界」と「人間界」は、完全に隔てられてしまった。この「言語シールド」=「『情報』という名の壁」を時折、すり抜けて届くメッセージを受信出来るものが「霊能者」と呼ばれるわけですが、私は奥多摩で魂を割ったことにより、超ど級の「霊」と、完全に「繋がった(コンタクトした)」わけです。
 だから、私には「眼に見える方の世界の仕組み」も「眼には見えない方の世界の仕組み」も、全部、クリアに見えていますし、気も風水も陰陽も、全部、読めます。私にとっての人間関係は「親族」「友人」のくくりではなく、すべて「霊的なネットワーク」すなわち、「ご縁とご縁の繋がり」です。そして「縁」は遠くなったり、近くなったり、くっついたり、離れたりしますが「コア」にある「縁」は絶対に切れません。
 私たちの身体(より正確には万物)の中には、間違いなく「魂(霊魂/精霊)」というものが宿っています。ごく、おおまかに「人間の仕組み」を説明するならば、頭の中に「人間脳」と「動物脳」があり、胸の中に「心」そして、その「心」のコアに「魂」がある。動物脳と「心」「魂」はつながっているけれど、人間脳が扱っているのは「言語(情報)」のみです。つまり、「人間脳」と「魂」は繋がっていない。「魂」は肉体が消滅した後にも残り、いったん、「眼には見えない世界(霊界)」に行く。霊界に留まる「魂」もあれば、別の肉体を得て転生する「魂」もある。いずれにせよ、「人間脳」=「科学」でしかものを考えることの出来ない人間には、「魂」の仕組みは決して分からないし、理解することは出来ません。
 現代社会に生きる人々は、理論、理屈、論理によって、人間脳(言葉を使う脳)が肥大してしまい、本能(動物脳)が働かなくなってしまっています。でも、本能が覚醒すれば「眼に見える世界(物質的な世界)」と「眼には見えない世界(霊的な世界)」の間に隔たりがないことは、「ここにコップがあるよね?」ということと同じ、誰にでも理解(共通認識)出来る既成事実です。「頭で考えるな、感じろ」ということです。

*『憑依現象』

 私は、長年通院している精神科の担当医に「頭の中の世界観が、現代の常識的な世界観と大きくかけ離れているだけで、脳機能としては正常に作動している(病的な状態にあるわけではない)」と認定されておりますし、家族とも仲良く、楽しく日常生活を送っています。自身「憑依現象」によって(善的に大きな霊に憑依されることによって)、周囲の人間にとっては、理解不能ではた迷惑な言動も多々取って参りましたが、自身が「何かに、無理やり操られ、動かされている」という自覚はありましたから、自身の言動が実社会において、どのような批判、拒絶、嘲笑に合うのかも、重々承知しておりました。結果、今、現在(2014年11月)、PCや携帯も基本的に封印し、外界とのコンタクトを一切、シャットアウトせざるを得ない状況にあります。「天動説」から「地動説」へ移行する時もガリレオが異端審問に掛けられたように、それまでの世界観を180度転覆させるような説を唱える者は、自説の正当性が世間に認められるまでは、「狂人」の仮面をかぶって暮らさざるを得ないからです。
 以下の話を「頭がおかしくなった男のイっちゃった話」と受け取るか、「他人事ではないリアルなニュース」と受け取るかは、皆さんの自由です。でも、ある「天命」を背負わされた者として、私はここに「本当の話」を書いておきたいと思います。
 2014年の10月、私は日常生活のほとんどの時間を「善的に大きな霊」に憑依されたままの状態になり、いろいろな場所に引きずり回されて、ボロボロになるまで酷使されました。それは、自分自身の「縁(霊的なネットワーク)」の切り離し、繋ぎ直しの作業であると同時に、「霊界(天界)のプラン」のお膳立てをするためでもありました。
 無我夢中で仕事を続け、すべてが終わった後に、振り返ってみてはじめて、自分がして来た「作業」の意味が分かるように、私も、「すべて」が終わった後に、振り返ってみて、はじめて(憑依された)自分がしてきた行為の意味が分かりました。
 「天界(霊界)」の意志は、ごくシンプルです。
 文明化される前のピダハンやネイティブ・アメリカン、イヌイットといった人々のように、この地球上で、人間がまだ自然と共生していた頃、世界の「気」は正しく循環し、すべては自然界の中で、ナチュラルに生成消滅していた。しかし、この世界に「金」と「科学」が生まれたことにより、世界は「間違った方向」へと転がり始め、今、この21世紀の地球は、何から何まで取り返しが付かないほど、「悪い」状況になってしまった。だから、ここらで、がっつり、世界観、常識観の「ひっくり返し」を行い、世界を平和にして、正しい姿に戻そう。
 それが「天界の意志」です。
 現代社会は、どんなに腹黒かろうが、心が汚かろうが、「金を持っているヤツが偉くて、強い」、どんなに心が綺麗で優しくても「貧乏なら弱者」という世界です。でも「これはおかしい! 間違った社会だ」と天界は言うわけです。ここらで一丁、何が「善」で、何が「悪」なのか、白黒はっきりして「心が公明正大な者=善」「いくら金があっても、腹黒い者=悪」と世間に告げ、人と人が「金」と「ネット」で繋がる社会ではなく「心と心(縁と縁)」で繋がり、互いに、助け合い、支え合う、平和な世界を作れ。それが、私に告げられた「天命」でした。
 現代社会は、すべてがシステム、ルール、マニュアルで動きます。逆に言えば、人間の方が「システム」「ルール」「マニュアル」に支配された社会という見方も出来る。現代社会に生きる人々は、すべてを「客観化(全国共通化)」したガイド・ラインに従わないと何も判断出来ない。でも、人と人が互いに思いやり、支え合い、頭の判断ではなく、心の声に耳を澄ませて、ちょうどいい塩梅、しっくりする感覚を判断基準にして行けば、ちゃーんと世間は、うまく回って行くのです。理論や理屈、理性といった「人間脳」で、「本能」の働きを抑圧し、疎外してしまっているから、人は「心の声」が聴こえなくなっているのです。

*『新しい経済の在り方』

 現代社会は、すべてが「金」に支配されています。戦争も格差も国家間の対立、派閥や宗教的な対立、企業の抗争、世界経済の推移、日常的な生活から老後の心配まで、現代社会の抱えるあらゆる問題は、突き詰めて行けば、イデオロギー、思想的な問題ではなく、要は「金」です。経済構造自体を変革しないことには、結局のところ、何も変わらない。そして、誰もが「資本主義」という構造自体は変えることは出来ないと考えている。
 でも、夢物語に聞こえるかも知れませんが、私は「資本主義経済」に代わる経済構造として「思いやり主義経済」という経済システムを、この世界に構築することは可能だと考えています。
「お金の使い道」には二種類あります。「心が本当に欲しいと思うものに使うお金」と「悪い大人に騙されて使わされているお金」です。少なくとも、私は子どもたちに「本当に欲しいものは買ってもいい。でも、お前たちを騙して、本当は欲しくないのに、つい、欲しい気持ちにさせることで、子どもからお金を巻き上げようとしている、悪い大人たちもいる。ほら、テレビのコマーシャルを観ていると、欲しくもないのに、つい、欲しい気持ちになってしまうだろう? だから、そういう、お金を儲けることばかり考えている悪い大人に騙されないように、頭で判断せずに、心の声をよく聴いて、クリスマス・プレゼントに何が欲しいか、よーく考えなさい」と、教えて(伝えて)います。
自分が本当に「素晴らしい」と思えるものを作ったから、「こんなに素晴らしいものが出来たよ!」と世間に告げ、購買を誘うのは「正しい」宣伝の在り方だと思います。しかし、消費者の購買意欲を無理やり喚起し、「金を儲けるためだけ」のために作ったものを宣伝するのは「間違った」広告の在り方だと思います。
 作りたいものを作って、それを必要としている人に売る。それが、本来の「「経済」の在り方だった。でも、いつの間にか、その行為が本末転倒し、「金を儲けるために、ものを作る」になってしまった。「いかにして金を儲けるか」それが「資本主義経済」の「至上命題」です。でも、それは間違った経済の在り方です。
「お金」というのは、何も「囲い込む」ためにあるのではないのです。例えば、家に、死ぬほど「お米」が余っている人は、「お米」がなくて困っている人に、気兼ねなく「お米」を分けてあげると思います。「お金」も同じ。「お金」が余るほど、家にたくさんあるのなら、「お金」がなくて困っている人にあげればいい。「貸し借り」ではなく「助け合い」です。何とか募金とか基金、NPOや法人に頼らなくても、システム、ルール、マニュアルに頼らなくても、自分の周囲の人間関係で、そうした「お金を使った助け合い(ちょうどいい塩梅、しっくり来る金額の志/布施)」をする心を誰もが持てば、ややこしい経済システムを作らなくても、人間同士の縁と縁、心と心の繋がりあいで、自然と世界は平和にまとまります。
 本文でも書いていますが、何事も「白」か「黒」かではなく、「ちょうどいい塩梅」「ほどほどの加減」を判断することが肝要です。システムもルールもマニュアルもあってもいい。でも、それに縛られてはいけない。金もネットもあっていい。でも、それに支配されてはいけない。
 「何々しなければならない」という「経済システム」で人の心を縛ることはない。でも、「困っている人を助けたい」というナチュラルな思いは、誰の心にもあるはずです。無理をする必要はない。でも、「心の声」に素直に従い、助けたい人を、助ける余裕のある時に、助けたい形で救えばいい。それが「思いやり主義経済」です。
 その「フェラーリ」が本当に必要ですか? そんなに高いワインを抜く必要がありますか? 部屋数が余るような豪奢な家に住む必要がありますか?
 「本当に欲しいもの」に使うお金は、どうなに高額だろうがムダ金ではない。でも、「使い道がないから使っているお金」は、明らかにムダ金です。
「必要なお金なのか? ムダ金なのか?」まずは、その判断から「心の声」に耳を澄ませて下さい。たまには、贅沢することだって必要だけど、有り余る金を持つ「セレブ」は、かっこよくも偉くもありません。だって「セレブ」=「ケチ」だもの。誰もが同じ「資産」である必要はない。生活を切り詰めてまで慈善団体に寄付する必要もない。でも「金持ちも金持ちなりに、分相応をわきまえろ」ということです。
 当たり前のことですが、バケツの水を頭からかぶるだけでは世界は平和になりません。また、無理をして遠い異国の地に、よく知りもしない子どもたちのために学校を建設しなくても、身近な人同士が、互いに互いを思いやり、助け合っていけば、やがて世界は「ネット」ではなく「リアル」に繋がり、世界中が「縁と縁」で結ばれます。その時、世界は本当の意味で、一つにまとまり、みんなが仲良しになることが出来る。もし、その平和な世界の中に、また「欲深い悪者」がはびこってきたら「善玉の戦士(白い魂を持った者)」が力を合わせて「悪者」をいじめてやればいいのです。今は「いじめっこ」たちが「優しい子」をいじめている社会。でも、「優しい子」たちが「いじめっこ」になって、「悪者たち」を「いじめて」やればいいのです。「いじめられっこ」が「いじめっこ」になればいいだけの話です。
 70億人の世界を平和にする、と考えてしまうと、途方もない夢物語に思えますが、スケールダウンして考えれば、構造としては「一つのクラスをまとめて、みんなで仲良く学校生活を送ることの出来る生活空間を作る」というだけの話。
 今、世界は、あっちこっちで殴り合いのケンカが勃発し、金と権力を持ったいじめっこたちが「心の優しい生徒たち」をいじめ、クラスをまとめる学級委員も先生もいない、学級崩壊寸前のヤンキー教室みたいなものです。それが「現代社会」という名のクラスです。そして、クラスの生徒の大半は、自分の頭で考えることをせず、ただ、時流に流されて、「いじめっこ」に加勢しているだけ。誰かが机を「ドン!」と叩き、まずは、クラス全員を着席させて、教科書を配らなければならない。その「教科書」が本書『ハートメイカー』です。
 私は、あくまで「天界の代理人(エージェント)」であり、「ゴーストライター」として、この本を書いたに過ぎません。『ハートメイカー』は、文字通りの「天界の知恵」だと、少なくとも私は思っています。そして、世界全人類が、この「本」を手にした時が、世界に完全平和が訪れる時です。私が皆さんとする「約束」ではありません。それが「天界(眼には見えない世界の人々)と、エージェントである私との間で交わした「契約」なのです。

*『神々に護られし国』

 2014年11月10日(月曜日)。
これは金魚を眺めながらラジオ番組(J-Waveで放送していた銅版画家のインタビュー)を聴いていた時に起こった「シンクロニシティ(スーパー・ナチュラルな共鳴現象)で分かった(判明した)ことなのですが、私に憑依していたのは、出雲大社に祀られている「大国主神」(を中心とする霊団)でした。
『ハートメイカー』の中で唯一、言及していないトピックが「日本の古代神話」で、そのことが気にはなっていたのですが、興味も知識もないので、あえて見ないフリをしていました。けれども、日本の古代神話にも当然、「起源」はありますし、神々の「モデル」となった実在の人物も存在したと思います。ネットで調べてみると、「大国主神」の「仕事(ミッション)」は、人と人の縁を結び、霊界と現生を繋ぎ、国を造ること。それは、私が背負わされていた「天命」であり、憑依された私が行っていた作業、そのものでした。
前のチャプターで(憑依された私が)言及している「理想とする社会、経済の在り方」は、まさに日本が古来より美徳とする人間存在の在り方、姿です。
システム、ルール、マニュアル、理論、論理、科学等といった考え方、価値観は欧米圏特有の(輸入された)思考形態であり、今の日本は、そして世界全体は、そうしたロジックに毒され、支配されています。
でも、元来、日本は、何でもかんでもカッチリ、ガッチリ「決めて」「固めて」しまわずに、義理、人情や志、思いやり、おもてなし、心遣い、気遣い、といった「ファジー」な感覚を重視し、大切にする国民性を持っていました。それが、本来の「日本」という国でした。
もし、「思いやり主義経済」といった社会形態を目指すのであれば、それは、日本国民にしか作ることの出来ない価値観です。「思いやり」や「心遣い」」といった「ファジーな心の在り様、気持ちの持ち方」で世界平和への道筋を作ることが出来るのは、日本人だけです。
『霊から授かったマニュアル』のチャプターで「競うこと」についての(憑依された私が書いた)記述があります。欧米人は本質的に「競うこと」を好む体質です。でも、日本人は本来「和」を尊ぶ国民(民族)です。
「資本主義経済」は、まさに欧米的な「競うこと」を根本原理(命題/教義)としたシステムです。でも、これからは日本的な「和」を重視した経済(社会)の形を作るべきです。
ただし、「和を尊ぶ」ということは、すなわち「付和雷同」しやすいということでもあります。みんなが並んでいれば、何を売っている店か分からなくても、とりあえず後ろに並んでしまうのが日本人の「体質」です。これまでは欧米的な自我をエクスパンションする「おれが、おれが」の社会だった。でも、理想的には、ちょうどいい塩梅に「おれも、あなたも」の社会であるべきなのだと思います。
 私は愛国主義者でも、天皇崇拝者でも、右翼でもありません。ただ「告げられたこと」として、受け止めて頂きたいのですが、日本はリアルに「神々(霊的なるもの)に護られし国」です。(沖縄には沖縄の神様=守護霊集団が、アイヌにはアイヌの神様=カムイがいます)大洪水が来ても、日本はほぼ無傷で残ります。そして、恐らくは「大洪水後」の新しい世界は、「ちょうどいい塩梅」を判断することの出来る日本が主導して創って(創り直して)行かなければならいのだと思います。

*『それぞれの職務(ミッション)』

 釈迦は血と汗と努力で「悟り」を開いた人ですから、たぶん違うとは思うのですが、古くはノアやモーセやイエス、ムハンマド、中世ではジャンヌ・ダルクやスヴェーデンボリ、近年ではベストセラー・シリーズ『神との対話』を書いたニール・ドナルド・ウォルシュや新宗教、新興宗教の開祖と言われる人々は(完全なまがいものは多々あるにせよ)、何がしかの私と同じ「霊的なコネクト」を体験した人間なのだと思います。西洋圏の人種は「キリスト教(聖書)」が基本コンセプト(前提的な概念)としてあるので、「霊的なコネクト」=「神の声」になるわけですが、「霊(霊団)」というのは、個々に、まさに人間と同じように「キャラクター」を持つ存在ですから、大きい霊に「コネクト」する人もいれば、小さい「霊」にコネクトする人もいるし、悪い霊にコネクトする人もいれば、善的な霊にコネクトする人もいる。当然、西洋的な霊も、中東的な霊も、東洋的な霊もいるでしょうし、私のように「純和風な霊」とコネクトする人もいるでしょう。
当然「霊」によって考え方も言うことも変わりますが、善的な霊が目指している方向性は同じ。「眼に見える世界」をちゃんと平和で自然な社会に正すことです。善的に大きな霊は、その目的のために、人間にコネクトするのです。
受容性の強い、自己犠牲的な人、困難な人生を送って来た人は「善的な霊」にコネクトされやすく、自意識が強く、利己的な人、欲深い人間は「悪い方」にコネクトされやすい。(ただし、ある種の子ども、特に10代までは「悪い方」に狙われやすいので注意が必要です。すべてを精神疾患、脳機能障害に還元しようと考えるのは「科学教」の安易な悪癖です。あまりにも常軌を逸した猟奇殺人等は、リアルに「悪霊の憑依」を疑った方が良いケースもあると思います)
ただ、例え「善的」(かつ、不本意)ではあっても「霊とのコネクト」が私と同じように「パーフェクト憑依」のレベルまで行ってしまうと、それは、もう、単なる「霊のツール(操り人形)」として利用されるだけですから、イエスのように磔(ハリツケ)になったり、ジャンヌ・ダルクのように火刑に処せられたり、「霊的な導き」があったからと言って、必ずしも「祝福」される(人生を送る)わけでもない。
フランスの片田舎の農夫の娘でしかないジ