2:身近な問題の解決マニュアル
*『育児と教育』
私は元々、40過ぎても新幹線の乗り方が分からないくらい社会的知識の欠如した、とても子どもっぽい人間だったのですが、奥多摩で一回「心のバインド」を全部外してしまったことによって、さらに子どもや動物に近付いてしまいました。なので、子ども目線で見た育児と教育について書いてみたいと思います。
子どもは「親→子」「上→下」というトップダウンで「とにかく言われた通りにしろ。親(先生)に言われたことは素直に聞け」と命令されると反発します。でも、それは大人でも同じですよね。「おれはお前の上司なんだから、問答無用で指示に従え」と「肩書だけの立場」を根拠に絶対服従を強いられたら、新興宗教の盲目的な信徒以外「ふざけんな、この野郎」と、誰だって内心、毒づくと思います。逆に、そこは子どもも大人と同じで、自分がきちんと納得したことならば、人に言われなくてもやるようになるし、がんばることが出来る。
問答無用で上から押さえつけられた子どもが一番、簡単に、その上下関係をひっくり返し、親や先生に対してアドバンテージを握ることが出来る手段が暴力です。親だろうが先生だろうが鉄パイプでぶん殴ってしまえば、少なくともその場では主導権を握り、相手を自分の支配下に置くことが出来る。その、子どもの方の止むに止まれぬ気持ちを理解しないで「暴力はいけない」という決まり文句で子どもを説得しようとしても、彼ら、彼女らは「どうせ、大人になんか、おれたちの気持ちは分かりはしないんだ」と絶望し、親や先生への信頼を失い、余計に道を外れて行ってしまうと思います。
今の時代、学校の窓ガラスを叩き割る生徒は少ないかも知れませんが、ネットのバーチャルな世界やSNSの疑似的な人間関係に逃避する若者も、キレて人を刺す子どもも同じ心理ではないかと思うのです。
今回『ハートメイカー』を執筆する過程で強く感じましたが、表面的には何がどう変わろうと、人間の本質は千年前も現代も、あまり変わらないような気がします。
「空って何で青いの?」と子どもに訊かれ、大急ぎでネットの記事を調べて子どもに答えを与えることよりも、子どもと一緒に空を見上げて「そうだね、どうして空って青いんだろうね」と一緒に悩み、考えることの方が余程大事です。
仕事も家事も育児もしなければならない多忙な毎日の中で、いちいち子どもと一緒に悩んだり、物事の本質について考えている余裕はないかも知れません。でも、例えば子どもを叱る時に「親目線」の他に「子ども目線」を自分の中に持つことによって、親の口から出た「やりなさい」と言う同じ言葉も、受け取り手の感じ方はまったく変わって来る。一言で言えば、その「やりなさい」と言う言葉の中に、苛立ちや威圧ではなく、優しさや共感が含まれているかどうかの問題なのだと思います。
もちろん、優しさだけでなく厳しさもなければ、子どもに物事の道理を教えることは出来ないけれど、その厳しさの根底に僅かでも優しさがなければ、子どもは確実に歪みます。
また、小さな子どもに対しては、時に、思い切り抱きしめることも必要です。言葉ではなく身体で、フィジカルに。言葉は所詮、言葉です。大人は、美辞麗句(びじれいく)を口先だけで安易に語る存在であることを、子どもは直観的に知っています。子どもは理論や理屈、権威にまだ言いくるめられていない分だけ、大人の口にする言葉の軽さを分かっています。政治家が口にする公約の軽さを大人が嘲笑するのと同じ感覚で、子どもも大人が口にする理想に満ちた綺麗な言葉を内心嘲笑している。結局、口先だけで親や先生は自分と正面から対峙してくれないと察すれば、荒れる子どもも、育ちのいい内向的な大人しい子どもも、同じように心の中で大人を見下し、あざ笑うと思います。でも、それは同時に、彼ら彼女らの悲しみであり絶望でもあると思うのです。信用に足る、支えとなってくれる大人がいないことへの。そして大人を否定することによって、まだもろく無防備な自我を自衛している。
子どもを物理的にしっかりと抱きしめることによって、互いに必要とし必要とされていることが実感として伝わり合う。そのことによって子どもは情緒的に安定する。
もちろん、自立して行く過程で反抗期はあってしかるべきだと思うし、むしろ、ないと困りますが、肌と肌を触れ合うことによって安堵し気持ちが安らぐのは、大人でも子どもでも同じではないでしょうか。
もう一点。「教える/教えられる」という関係についてなのですが。
それが純然たる勉強やしつけであれば、ある程度トップダウンで子どもにものを教えることは必要だと思います。でも「教育(教えて育てる)」の本質は「導くこと」ではなく「気付かせてあげること」だと思うのです。
教えるということは、こちらが差し出したものがつらい義務ではなく貴重な贈り物だと感じられるようなことであるべきです。
と、アルバート・アインシュタイン(1879-1955)は語っています。
例えば、あなたが一念発起(いちねんほっき)してボクシング・ジムに通いはじめたとします。もちろん、トレーナーから言われた通りに、ただ、ひたすら左ジャブだけを毎日1000本×半年間、打ち続けることによってしか分からないこともあります。でも、その基本を習得するプロセスで「こう打たれたら、こうガードしろ」と頭ごなしに押し付けられるより、「こう殴られたら、お前ならどう避ける?」と問い掛けられ、自分の頭で必死に考え出した答えに対し「じゃあ、その後こう打たれたら?」と投げ掛けられた方が、その技術や知識は余程身に付く。教育は、そのトップダウンとボトムアップの程よい兼ね合いなのだと思います。
私が今、家族以外で一番信頼している人間は、ボクシング・トレーナーの石田さん(43歳・元A級プロボクサー)です。
かっこつけるわけでも自慢するわけでもなく、私はこれまで師と呼べる人とは一人も巡り合うことが出来ませんでした。本質的には誰かに何かを教わったことはないし、既存の枠の中に収まることが出来ないまま生きて来るしかなかった。
でも、今のジムで石田さんと出会い、40歳を過ぎてから改めて世界最古の競技であるボクシングという枠の中に身を投じ、そのレールの最後尾にくっ付いて「レオ・サンタ・クルス」とか「ホルヘ・リナレス」といった、はるか天空に瞬く憧れの星の後ろ姿を仰ぎ見ることによって今、計り知れない安堵と救い、癒しを得ている。それは本当の愛を知らぬままに彷徨い歩いて生きて来た根無し草が、結婚という枠の中に落ち着くことによって、はじめて得られる安堵や救い、癒しとまったく同じ種類の感覚。
トレーナーの石田さんは滅多に褒めてくれません。でも、私は技術的にも人間的にも石田さんを100%信頼しているから、何とか石田さんに言われたことを、忠実にしっかり身に付けたいという一心でがんばることができる。いつか一言、石田さんに「鈴木さん、上手くなったな」と褒めて欲しいから。
石田さんが私にとっての師であるように、私も子どもたちにとっての師でありたい。本当に心から信頼出来る師匠の口から出た言葉なら、その師匠が親だろうが教師だろうが組長だろうが、人間いくつになっても素直に言うことを聞くと思います。
そう考えると、子どもと向き合うのに「シュタイナー教育」とか「モンテッソリー・メソッド」とかムズカシイことを考えなくてもいいのではないかと、少なくとも私は思います。
*『人はなぜ恋をするのか?』
私も作家の端くれですから、恋愛について多くの物語を書いて来ました。作品のテーマが「恋愛」ではなくても、恋愛の要素が入っていないと読者に本を読んでもらえません。古(いにしえ)より、作家は連綿と男女関係のエピソードについて書き続けて来たわけですが、逆に言えば、恋愛のメカニズムが解けないからこそ、作家はいろいろと思いを巡らせ、ドラマを生み出すことが可能だったとも言えます。
では、みなさんは、そもそも「人はなぜ恋をするのか?」と考えたことはありますか? 私が敬愛する恋愛小説家の唯川恵さんは『愛がなくてはじまらない』(だいわ文庫)の中で、こう書いています。
「今まで、後悔した恋愛は一度もないわ」
と、彼女は言った。
「だって、彼らとの恋愛があってこそ私という人間がここにいるんだもの」
でも、私は後悔した。
確かに、そういうことがあって私がここにいるわけだけど、後悔しまくった。
どうしてあんな男を好きになったのかと、死ぬほど後悔した。
どうして人は人を好きになってしまうのでしょう?
英語では恋も愛も、ひとくくりに「LOVE」と表現します。しかし日本人は恋と愛という別々の言葉を作った。なのに、恋も愛も英語のように一緒くたにして「恋愛感情」と呼ぶから恋愛について多くの人が惑うけれども、そもそも、この恋と愛はまったく別の感情なのだと思います。
結論から述べますと、恋というのは動物のオスとメスが惹かれあうのと同じ感情です。では、なぜ動物のオスとメスが惹かれあうか、というと繁殖するためです。そのミッションのために動物のオスとメスは惹かれあい番(つが)う。だから恋をすると「彼女を抱きたい」(生殖したい)と思うのも「あの人に抱かれたい」(生殖したい)と思うのも、動物としては自然なことです。つまり、人間は、脳が無意識かつ生理的に「この相手と交配して遺伝子を残したい」と判断した異性に「惚れる」のだと思います。例えプラトニック・ラブであったとしても、恋が生理現象だからこそ、脳内物質の分泌が異常になったり、心臓の動悸がしたりといった身体的な変化が表れる。「もう、あの人のことで頭がいっぱい。他のことは考えられない」とか「なぜ、こんなにも胸が切なく苦しいのだろう」「キュンキュンする」「ドキドキする」といった感覚。これは身体感覚です。つまり「あなたが好きです」という告白は「あなたと繁殖したい」という動物の求愛と同義です。そして「一目惚れ」とは、脳内で繁殖センサーが反応したことを意味します。
一見、ピュアで甘美で崇高なロマンスだったとしても、恋が繁殖を目的とした生化学反応だからこそ、同じ相手と何度もセックスをしている内に飽きてしまったり、付き合いが長くなるにつれて気持ちが醒めてしまう。
女性の恋愛活動が活性化するのは初潮から閉経まで。生殖可能な時期を過ぎると、女性は急激に恋愛欲求を低下させます。また、中高年の男性と若い女性との恋愛関係は成立するのに、その逆が基本的に成立しないのも同じ理由からです。
羽を広げて求愛する鳥の映像を誰しも一度は見たことがあると思いますが、生物はみな、異性を惹き付けるために懸命な努力をします。モテるために着飾ることも、若く美しいメスにオスが惹かれることも、肉体的/社会的に強いオスにメスが惹かれることも、生物として自然な欲求。異性を惹き付けるのは生命力(オーラ)の強さ。普段はモテる人も、元気(繁殖力)が弱まるとモテなくなります。また、例え美形ではなくても、いつも明るく元気な人は異性を惹き付ける魅力を放ちます。
一言で言えば恋とは動物としての人間に備わっている生体(繁殖)メカニズム。対して性とは関係なく「一緒にいると楽だし安心する」という人間的な相性を感じるのが愛。そして、人間が抱く人間的な愛の感情は、性別や年齢、繁殖とは関係ありません。だから、本質的には繁殖(セックス)と生活は両立しないのです。
そもそもは、こうした、まったく別種の心的作用である「恋」と「愛」を「恋愛」としてひとくくりにしてしまったのが、恋愛に対して人々が抱く幻想の原因です。
「あなたに恋しています」と「あなたを愛しています」では「冥王星」と「海王星」くらい言葉の意味が違います。世間的には「恋愛対象は一人でなければならぬ」という固定観念があるけれども「好きなのはAさんだけど、愛しているのはBさん」というシチュエーション自体は、人間の自然な感情として決して矛盾しない。
一生一緒に暮らすなら、相性がいい相手と結ばれた方が幸せになることが出来ると思います。恋は一時的生理欲求ですが、相性で結ばれた相手への感覚はそれほど変化しないから。
簡単に言えば、相手の容姿(ポテンシャル)で結婚するのは、動物と動物としての結婚。相手の人柄や性格(相性)で結婚するのが、人間と人間としての結婚。動物は一時的な繁殖を目的としてカップリングするので、動物として結婚すると長続きしません。
動物にもモテる個体とモテない個体がいます。人間にもモテる人とモテない人がいます。では、「モテる/モテない」は、どのようにして決まるのでしょうか?
女性にとって男性の「高学歴、高身長、高収入」は恋愛ファクターになりますが、男性にとって、もっとも重要な恋愛ファクターは女性の容姿です。また、か弱い美少女を好きになる男はたくさんいるけど、虚弱過ぎるイケメンを好きになる女性はあまりいない。こうした性差による「モテ」の相違は、どこから来るのでしょう?
幼児を見ているとよく分かりますが、オスは本能的に「強くなりたい(闘って、勝ちたい)」という願望を持っています。メスは「美しく、可愛くなりたい(より多くのオスを引き寄せたい)」という願望を持っています。現代社会は、どんどん本能が薄く、弱く、壊れて来ていますが、例え、成人し、社会に出ても、パワーを求めるのはオスの本能であり、美を求めるのがメスの本能。ただ、オスは時代や場所に関係なく、肉体的/社会的に「強い(庇護能力、包容能力が高い)」個体がモテますが、オスを引き寄せるメスの美醜は時代や場所により変化します。昔の日本と今の日本では「美」の基準が違うし、地域によっては、顔の造形とは関係なく、よりお尻の大きい女性、首の長い女性が「美しい」とされる場合もある。女性の美醜は、どれだけ多くのオスを引き寄せることができるかによって決まります。性差(性の違いによって生まれる特徴)がどこから来るかというと、女性の「女性性」は生殖行為において受容存在(遺伝子を受け入れる方)であることに起因し、男性の「男性性」は生殖行為において能動存在(遺伝子を与える方)であることに起因するのだと思います。そして、オスは美しい受容存在と、メスは強い能動存在とカップリングした方が、自分の遺伝子が伝播して行く可能性が高くなる。「強いオス」「美しいメス」ほど、遺伝子の選択権を持っています。つまり、より優性の(継続性/拡散性が高い)遺伝子を持った個体が「モテる」ということです。だから、オスのブタから見て、美しいメス・ブタという認識作用、モテるブタ、モテないブタの格差もあるのではないかと思います。
「容姿の美醜なんて所詮、皮一枚の問題じゃないの。でも、やっぱり整形してでもモテたい」という女性も多々いらっしゃるかと思いますが、「モテる女性/美しい女性」とは「たくさんのオスが繁殖したがっている(遺伝子を与えたがっている)メス」のことです。逆に言えば
「美=最大公約数的にオスを引き寄せるメスの身体的特徴」
です。
男性に対して「ハニートラップ」は有効ですが、女性に対して「ハニートラップ」は、あまり効果がありません。女性にとって、男性の容姿はマスト・アイテムではないけれど、男が恋に落ちるのは、たいてい美しい女性。でも、それは、あくまで繁殖を目的とした生化学反応です。
激しく燃え上がる恋人同士はたくさんセックス(生殖)して下さい。でも、その相手との結婚はちょっと待った方がいいかも知れません。いませんか? 他に。トキメキはしないのだけど、不思議とアイツと一緒にいると素の自分でいられて和(なご)むんだよな、と感じるお相手が。
恋い焦がれ合う二人が障害を乗り越え、最後で抱き合いキスを交わすドラマも、切ない恋心を熱唱するラブ・ソングも、その「好き」の正体が動物の繁殖欲求と同じだと考えると身もふたもありませんが、良くも悪しくも「Love Is The Mystery」ではないのです。「どうしてこんなにも好きになってしまったのだろう?」と恋に悩み、苦しむ前に、心の中に眼を向けて、自分が抱く理不尽な感情の正体を見極めてみませんか?
*『理想の家族』
現代社会に生きていると忘れがちなことですが、人間もあくまで動物の一種です。他の動物と人間が違うのは「言葉を持っているか、否か」という一点のみです。そして、その「言葉」を持ったことにより、人間は動物としての本能が壊れてしまいました。なので、ここで「人間とは動物である」という基本に立ち返って、人間の、そして家族の在り様を考えてみたいと思います。
*
多くの人は「一夫一婦制」という家族構成を、何の疑いもなく当たり前の前提、制度として受け止め、婚活して、結婚して、家庭を作ると思うのですが、『結婚の起源』(どうぶつ社)という本の中で、人類学者であるヘレン・E・フィッシャーさんは、こう述べています。
一夫一婦制という慣習は、たぶん変化していくだろう。ロビン・フォックスは「今のままの状態が続けば、何らかのかたちの複数婚になるだろう。現在すでに一夫一婦制は機能しなくなっている」と述べているが、事実、こうした変化はすでにはじまっている。たとえば、今日ほとんどの西欧人は、全体としてみると一夫一婦制ではなくなっている。最初一人の相手ときずなを結んでも、やがてその関係を打ち切って、別の相手ときずなを結ぶというように、「次々と続いていく一夫一婦制」になっているのである。これは、ほかの社会においても見られることだ。離婚も、あらゆる社会で許されているが、離婚したのちに、ほとんどが別の相手と再びきずなを結んでいる。
ホッキョクグマのお父さんは、やることやってコトが終わると、とっととどこかに行ってしまい、二度と家族の元には戻って来ません。人間も本性は同じだと思うのです。
仕事のためでも、浮気のためでも、ギャンブルのためでもいいですが、妻子を残して家を出て行ってしまうお父さんはたくさんいますが、夫と子どもを残して家を出ていくお母さんはあまりいません。運命の恋に落ちて不倫に走るお母さんはたくさんいるかも知れませんが、その結果として家族を捨てる女性はレア・ケースです。また、女性は心で不倫しますが、男は身体で不倫します。
では、なぜ、男と女はちゃんとくっ付いていられないのか? そして「家族」とは、いったい何なのか? 動物の視点から解き明かして行きたいと思います。
セックスが本質的には子どもを作るための生殖行為(繁殖活動)であることに異存のある方はいらっしゃらないと思いますが、女性がセックスに対して求めているものと、男がセックスに対して求めているものは全然違います。
多くの場合、女性は人としてメンタルに発情し、セックスで愛を確認するけれども、男が女とセックスをしたがるのは動物としての種付け衝動なのだと思います。だから、避妊具を付けた状態と付けていない状態で快感に大差はなくても、男は本能的に膣内に直接射精したがる。
自分の宿した遺伝子を守りたい(子どもをプロテクトし、自分がプロテクトされたい)メスは浮気性のオスを警戒するけども、自分の遺伝子を広く頒布したい(より多くのメスと交配したい)という本能を根源で持つオスは拘束するメスを嫌う。
「男って何で浮気するの?」「浮気しない男はいない」とお嘆きの女性も多々いらっしゃるかと思いますが、オスの浮気(遺伝子の拡散/頒布)は本能です。
メスは遺伝子を授精し、子どもを次世代に残すことが出来れば(そして、その子どもが繁殖可能に成長するまでプロテクトすることが出来れば)メスとしてのミッションを果たすことが出来るので、生涯を一人の男性と添い遂げても充足することが可能です。子どもと巣(家庭)を守るのはメスの本能なのだと思います。
「家を守るのが女の仕事」ではなく「家を守りたいのが女の本能」です。
私は一昔前の「専業主婦が家庭を守って、男が外で稼いでくる」という役割分担の方が、現代社会の「男も女も何でも同じ」という価値観よりも、自然なライフ・スタイルだったと思います。生涯独身を貫き、仕事(夢/趣味)のためのみ(自分のためだけ)に生きても、ある種の男は完全に満たされて死んで行くことが出来ますが、生涯を仕事のみに捧げて(独りきりで生きて)充足出来る女性はいません。
社会参画において男女が同じ役割を担うことを否定はしませんが、ナチュラルに生きるためには「性差」を否定しない方がいい。
もちろん生物種によって夫婦のあり方も育児、家族の役割分担も様々です。ただ、恐らく、ヒトのオスはメスに子どもを産ませる本能は持っているけれど、子ども育てる本能は持っていない。「仕事か、子どもか」二者択一を迫られて、仕事のために子どもを捨てる母親はほとんどいないと思いますが、男は仕事のために子どもを捨てることが出来ます。野生の馬の群れが顕著ですが、オスが本能的にプロテクトするのは自分の群れ=共同体です。
国家(群れ=共同体)を守るために武装して戦争を起こすのは常に男だし、男は会社(群れ=共同体)を守るためならば家庭を犠牲にすることも出来る。例外もあるとは思いますが、女性にとって一番大事なのは群れ=共同体(国家や会社)ではなく自分の子どもと家族だから、女性は戦争を起こしません。
「ヒト」という種に関して端的に言えば、一匹のオスとカップリングして、子どもと巣(家庭)を守るのがメスの本能で、たくさんのメスに子どもを産ませて、子育てをせずに群れを守るのがオスの本能なのだと思います。
つまり、現代社会における一夫一婦制というのは、こうした本来、別々のミッション(本能)を持ったオスとメスを一対一で強制的にくくりつけるための社会的契約制度(バインド)だから、愛を誓い合ったその日から、死ぬまでずっと「夫婦」「家族」という人生スタイルは、生物としては決して自然な営みではないのです。むしろ、ヒトという種に限定して言えば、イスラム圏やアフリカの一夫多妻、大奥/側室といった家族構成の方が、生態系のスタイルとしてはナチュラルです。ライオンのように、食料を得るための「狩り」をする役割をメスが担うケースもありますが、一匹のメスと複数のオス(一妻多夫)という家族構成の哺乳動物は、私が知る限り存在しません。アリは次々と産卵出来るので、女王アリを中心としたコロニーを形成しますが、哺乳動物は胎生で、授精から出産まで時間がかかりますから、メスを中心とした繁殖コロニーは形成することが出来ない。そして、仲の良い夫婦の代名詞である「おしどり」は、毎年、冬ごとにパートナーを変えます。
先のチャプターで「繁殖(セックス)と生活は両立しない」と書きました。じゃあ、子どもを作って家族になることができないではないか、と思われるかも知れませんが、繁殖した子どもたちを共同体で育てるというスタイルが「ヒト」という種にとって、もっとも自然な社会構成なのだと思います。現代社会における核家族は自然に反する、不自然な形態のコロニーですから、人間関係が歪んだり、家族の中で軋轢(あつれき)が生じたりするのは当然です。どんな環境にでも適応する能力を持ち、理性で本能をコントロールすることが出来るのが人間ですが、自然と反する行為は、必ずストレスの原因になります。「良い」「悪い」「正しい」「間違っている」という価値観を押し付けるつもりはないし、したくても出来ないという方もいらっしゃるかとは思いますが、男も女も「子どもを作らない」という人生設計は自然の摂理に反します。なぜなら、生物とは子どもを作ることを唯一のミッションとして存在しているからです。そのミッションのために動物は生まれ、育ち、寝て、起きて、狩りをして食べ、カップリングして死んで行きます。「幸福(夢)を追求して生きる自由」は人間に与えられた特権ですが、「幸福(夢)を追求して生きる」のは、動物としてはナチュラルな生き方ではありません。
では、人間は、どのような生活(暮らし)がもっともストレス・フリーで幸せなのか? 私が理想と考える人々をご紹介します。
*
みなさんは「ピダハン」と言う人々をご存知ですか?
ピダハンは、アマゾンの奥地で暮らす400人ほどの部族。そして今、この部族の言葉が、言語学会で大論争を巻き起こしているそうなのですが。
彼らは数の概念を持たない。1、2、3……。という数え方をせず「多い」か「少ない」か、という言葉しか持たない。右/左の概念や色の名前もないし、神も創生神話もない。「過去」という言葉も「未来」という言葉もないから、彼らは過去を悔いることもないし、未来を憂うこともない。だからピダハンは、とても穏やかで幸せそうに暮らしている。ピダハンを怒らせたり、苛立たせたりするのは、とても難しいそうです。ピダハンは、自分の子ども/他人の子どもという区別もしません。恐らく夫婦/家族/親族という境界線も限りなあいまいな人間相互のネットワークの中で生きているのではないかと推測します。先進国の常識で考えると奇異な社会形態ですが、夫婦/家族/親族というのは、その言葉自体が存在しなければ、この世には存在し得ない概念(境界線)です。つまり「夫婦」「家族」「親族」というのは、そうした言葉が生まれたことによって、人間の頭と心にかけられた言葉のバインドなのです。
例えば304号室に暮らす私の家族=鈴木一族と、隣の303号室の住人である間柴一族とは、まったく血縁関係にないと言えばないのだけど、両家の血縁を過去にさかのぼっていけば、どこかで親兄弟は繋がっているのです。ウサイン・ボルトさんだろうが、アンジェリーナ・ジョリーさんだろうが、人類の起源を辿っていけば、人間はみんな親族関係者と言えないこともない。私とジョニー・デップさんの血縁の違いは、血が濃いか、薄いかの違いでしかない(はるか過去にまでさかのぼっていけば、家系図はどこかでつながる)のです。血縁関係の境界線は色のグラデーションと同じように、単なる線引きでしかないから、私の子どもとあなたの子どもとの間には、生物学的に絶対的な境界線は存在しません。
繰り返しになりますが、私は動物としての人間の理想的なコロニーはピダハンのように「共同体の中で子どもを育てる」というスタイルだと思います。直系の血縁とは関係ない(でも、どこかで血は繋がっている)共同体(集団)が一つの家族ユニットになれば、少なくとも「親のいない子ども」も「シングル・マザー」もいなくなります。子どもが熱を出したからと言って、パパとママのどちらが幼稚園に迎えに行くかでケンカしなくて済むし、核家族的な閉塞感、孤立感に苦しむことなく、みんなで助け合い、支え合って暮らすことが出来る。そして、不妊治療をしなくても誰でも子どもの親になることが出来ます。
私は毎日、次男を幼稚園に送迎しており、園児たちと一緒に公園で遊ぶこともあります。そうした時、一般的なバイアス(常識的な世界観)で周囲の光景を見ていると、やはり「自分の子ども」「他人の子ども」という区別はあります。でも、そのバイアスはピダハンのように外してしまうことも可能です。そして、バイアスを外してしまえば、極端な話「他人の子ども」を守るために、命を投げ出すことも出来ると思う。つまり、意識の持ち方一つで、誰でも「他人の子ども」の親になることは出来るのです。
もちろん今すぐ即座に「一夫一婦制」という社会制度を解体することは出来ないでしょう。でも、現代社会における「核家族」というユニット(システム)が崩壊しはじめ、多くの夫婦が、そして多くの親と子が悲鳴を上げているのも確かだと思います。一度、動物の視点から、ナチュラルな家族の在り様を考えてみることも必要なのではないでしょうか?
『心のネットワーク』
奥多摩に失踪し、素泊まりの宿に投宿していた最初の数日、私は、ただひたすらコタツに入って泣いていました。酒は一滴も飲まず、インスタント・コーヒーを飲みながらタバコを吸って、たまにリンゴか、ひからびた食パンをかじって後は、ずっと泣いていました。そして涙によって心が浄化され切った時「おれは、一兎(かずと)さんに会わなければならない」と直感しました。その時、私の丸裸の心に一切負荷をかけずに、100%通じ合うことが出来、私を救済してくれるのは一兎さんしかいないと本能が告げていました。
一兎さんは27歳の老人介護員。そもそもは彼が「ミクシィ」のブック・レビューに私の著作の感想を書いていたことがきっかけで親交を結び、やがて家にご招待して、子どもたちと遊んでもらうような仲になりました。その後、一緒に小説を執筆したこともあるし、今ではボクシングのジム・メイトでもあります。ちなみに「一兎」というのは、作品を共著した時の彼の筆名です。
そして彼は私の求めに応じ、電車賃さえ足りないかもしれないという経済状況の中で奥多摩までやって来てくれました。「大丈夫ですか?」でも「しっかりして下さい!」でもなく「旅行に行くみたいで、純粋に楽しくて来ました」と言って。私たちは青梅線・奥多摩駅前の「クマ、出没注意!」と「命の電話・自殺110番」の立て看板の脇でしっかりハグしました。
彼とは何の話をするでもなく、一緒に風呂に浸かったり、お互いの悪癖について打ち明け合ったり、どうでもいいようなことを、まったり話しながら夜は更けて行きました。彼はビールやカップ酒やウィスキーを飲みながら。私はインスタント・コーヒーをチビチビ飲みながら。私が「何か、音楽があったら最高だね」と言うと「あ、聴けないこともないです」と言って、彼はiPhoneでYOUTUBEを検索してくれました。「何でもいいよ」と言ったら、最初「AMAZARASHI(アマザラシ)」を再生してくれたのですが、その時の私にとって、あまりにも負荷の高い音楽だったので「AKB48」の歌をいろいろ一緒に聴きました。
音楽を背景に一兎さんは、自分にとって『THE ANSWER』(角川書店/2004)が、いかにすさまじい作品だったかということを、はじめて気負いもてらいもなく流れるように語ってくれました。その時はじめて私は、彼に100%『THE ANSWER』が通じていることを知ったのです。
その後、深夜2時過ぎに、お互い自然に眠りに落ち、翌朝、彼はとてもスッキリした顔で「楽しかったです」と言い残して帰って行きました。そして、その一夜によって私の魂はポワーンと救済されました。
次に自分の意思で奥多摩までやって来てくれたのは、一兎さんと3人で作品を共著したこともあるキャバ嬢の「みなみ」。彼女もまた「行きたいから行くー」と言って、片道3時間くらいかけて奥多摩まで来てくれました。そして、マザーテレサのごとく無償の愛を私に注ぎ「じゃあねー」と言って帰って行きました。
その後、激しい自殺衝動に襲われ「このままでは、おれは飛び降りてしまう」という状態の時に来てくれたのが父で、最後、事件の幕引き役として妻がやって来て、私を現実の世俗社会に連れ帰ってくれた。
そして後日、以前入院していた精神病院のように、ただ深手を負った魂をかくまうシェルターを必要としていた時、再び、私を奥多摩に連れて行ってくれたのが実の母でした。
奥多摩の古びた宿の一室の死者と生者が交わる冥界のようなあの場所は、丸裸の人間関係を一切の雑念抜きで見つめ直す場所でもありました。同時に、その冥界で、私は「心のバインド」をすべて外された、むき出しの一匹の動物として人間社会を見ていました。そうしたスピリチュアル・プロセスを経て学んだのは、
人間の心は一つではない。
ということです。
本来、人間の心というのは様々な要素で出来ています。だから、この部分ではこの人を必要とし、この部分ではこの人を必要とし、ということは必ずある。それは身体がビタミンも必要だし、ミネラルも必要だし、タンパク質も必要だし、鉄分も必要だし、というのと同じことです。動物や昆虫、植物、そして鉱物までもが食物連鎖というネットワークで相互依存しながら繋がり、連関しているように、本来的には人間の心も、相互依存のネットワークの中に存在すべきものなのだと思います。だから、その食物連鎖を断ち切られれば心は孤立し、飢え死にしてしまう。「心」はスタンド・アローンではシステムを維持出来ないし、「心のネットワーク」は、クローズド・サーキットではなく、オープン・サーキットであるべきです。とは言え、「心のネットワーク」も、中心点(自分)から近いサークル、遠いサークル、人間関係のプライオリティーは歴然と存在します。
純粋に、この現実世界を生きていくということにおいて、私は誰よりも妻を必要としています。「子どものために命を捨てなさい」と言われれば、私は何の迷いもなく命を捨てることが出来ますが、もし逆に自分が無人島に誰か一人連れて行かなければならない、という選択を迫られれば間違いなく、子どもでも親でも友だちでもなく、私は妻を選びます。金も家も食料も何もない人生丸裸の無人島という場所で、それでも生きていくためには、誰よりも何よりも私という人間には妻が必要です。
もし、何もかも失って、それでもまだ生きていたら、私は周りに大切な人さえいてくれれば、あとはテーブルとイスくらいあれば他には何もいりません。
あの奥多摩で、自分にとって「本当に大切な人」が誰と誰と誰なのか「パッキーン」と線を引くように良く分かりました。すごくクリアに、自分を支えてくれる、そして自分が支えるべき相手が誰と誰と誰なのかを心底で理解した。まるで、とてもきめの細かいふるいで、砂金をより分けるように。
その場、その場で断続的に救援物資は届けられていたとは言え、砂漠に独り取り残されたように生死の境をさまよっていた短くはない時間、救助に来てくれない人を恨んだこともありました。物理的な深刻さではなかったけれど、被災地に取り残された方たちの気持ちが分かった気がします。でも今、私は周囲の人に対して愛と感謝の念しか抱いていません。
キリスト教には「赦(ゆる)す」という根本教理があります。今になって私は、その「赦す」という概念がストレートに腑に落ちる感覚があります。一言で言えば、たぶん、
「赦す=受容」
なのだと思います。
例えば、誰かがあなたに対して「わたしは友人に、こんなひどいことをしてしまった」と告白(懺悔)したとします。そこで、あなたがお説教をせずに「大丈夫。どんな失敗だって十年経ったら笑い話。気にすることないよ」と、相手を受容してあげることが出来れば、相手はあなたに赦される。逆に、たったそれだけのことでも、人は人を救うことが出来るのです。
人間は神ではないから無制限な愛を持つことは出来ない。一人の人間が持つことの出来る愛の総量というのはたぶん決まっています。だから、親子であれ、男女関係であれ、友人であれ、もし複数の「本当に大切な人」がいたら、その愛を分配しなければならない。そして、自分自身が受け取るのが、例え「100%の無償の愛」ではなくても、他者から分配してもらった愛を、恨んだり、ひがんだりすることなく素直に受け止め、その、おすそ分けしてもらった他者からの愛に対して心から「ありがとう」と言える気持ちを持つことが出来れば。そんな愛のやり取り、赦し、赦され合う関係こそが、きっと「心のネットワーク」なのです。
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【定価】1,620円
【発行】2015年3月11日
【総ページ数】221ページ
【版元】青山ライフ出版
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