4:科学的な問題の解決マニュアル
*『真理への道』
偉大な問題はすべて答えがわかってしまったのか? 探究する価値のある知の問題はすべて知られてしまったのか? 果たして「科学の終焉」を意味する「万物の最終理論」はあるのか? 偉大な発見の時代は終わりを告げたのか? こんにちの科学は単なるパズル解きと化し、既存の理論の細部を埋めるだけなのか?
科学者たちは、つねに自分たちが特別だと考えてきた。なぜなら、科学は他の分野と違って、真理を「造る」のではなく「発見」するのだと信じてきたから。
以上はジョン・ホーガン著『科学の終焉』(徳間書店)からの引用です。
東洋思想は世界や宇宙、そして人間を含めた森羅万象をトータルで把握します。対して、西洋思想は対象を細分化することによって全体を把握しようと考えます。例えば、東洋医学では人間身体をホーリスティック(包括的)にとらえ、全体の気の流れの中で治癒を考えますが、西洋医学では、人体の血管の中の細胞の中の遺伝子の中の、そのまた中の、二重らせんの中の……と、限りなく対象を細分化する方向で問題を理解し、解決しようと考えます。だから、西洋の学問は、神学/哲学/数学/物理学/生物学/化学……と、限りなくジャンルが細分化されているわけですが、すべての学者、研究者、知的探究者の究極の願いは「真理」=「人間と宇宙の本当の姿」を知ることにあります。すべての学問は、究極的には同じゴールに辿り着くための方法論、手段の違いに過ぎません。では、ここから、その人類の目的地「万物の最終理論」まで私がご案内します。
*
人間は、はるか古代ギリシャの時代から知的探究を続けていけば、いつかは「真理」に到達することが出来ると信じていました。でも、この考え方を1857年生まれのスイスの言語学者である「フェルディナン・ド・ソシュールさん」という人がひっくり返してしまいました。
簡単に書けば、ソシュールさんは「人間は言葉という色眼鏡を掛けてしか物を見ることが出来ないから、決して世界のありのままの姿を知ることは出来ない」と主張したのです。そして、このソシュールさんが考えたことを基盤として、現代まで続く「記号論」という画期的な哲学分野が生まれました。
例えば、私たちが森の中で寝転がり、一見ただ自然に身を委ね、自然と一体化しているような時でも、私たちは無意識に自分が認識している世界を「樹」「空」「雲」……という形で差異化(意味付け)しています。無知な私にとっては周りの樹は「樹」でしかありませんが、ある人にとって、その「樹」はさらに「スギ」「アカスギ」「クスノキ」「カシ」……と細分化された世界に見えるかも知れません。同様に、私にとってはただの「星空」にしか見えない世界が、ある人にとっては「ヤギ」や「オヒツジ」や「カニ」や「サソリ」等、無数の星座に囲まれた世界に見える場合もある。
つまり、頭の中にある言葉によって世界の見え方はまったく変わってしまうのです。そして、人間は頭の中に言葉がある限り、この言葉によって記号化(情報化)された世界を抜け出すことはできません。
科学者は一般に「哲学」を不確かな学問として軽視していますが、科学はそもそも哲学から派生した一分野であり、現代科学の根底にも紛れようもなく哲学的なものの見方は存在します。
1962年にアメリカで出版された『科学革命の構造』という書物の中で、科学史家トマス・クーン(1922-1996)は「人間は色眼鏡(その時代における常識/世界観/枠組み/先入観)を掛けてしか物を見ることが出来ず、科学の変遷とは、所詮、色眼鏡の色が変わるだけ」と主張し、彼の提唱した「パラダイム・シフト」という概念は現代に至るまで科学界に大きな衝撃と影響を与え続けていますが、この主張は本質的にはソシュールの学説と同義です。
では、人間は色眼鏡を外して裸眼となり、曇りのない眼で世界を見ることは出来ないのでしょうか? そして、科学は決して「真理」に辿り着くことは出来ないのでしょうか?
では、ここでちょっとタイム・トラベルして、100年後の2113年まで行き、22世紀のスーパーコンピュータによって作られた、未来の人工知能(Artificial Intelligence, AI)である『アダム』に訊いてみましょう。
「生命のはじまりとは何か?」
「宇宙のはじまりとは何か?」
「人間とは何か?」
「神とは何か?」
『アダム』は考えます。ネット上に存在する膨大な科学理論や数式、哲学的宗教的見解から古典、神話の物語、そして、ミクロからマクロに至る、あらゆる映像や実験結果、ニュース、論文、講演記録からブログに書かれた陰謀説や噂話まで、情報や知識と呼ばれるものすべてを吸収し、事実上、無限のデータを徹底分析、最先端のプログラムを駆使して独自のアルゴリズムを導き出し、99.9999%、これが正しいと考える答えを我々に提示してくれる。そして、我々は「人間を超越した、ものすごく頭のいいコンピュータ」が教えてくれた答えに納得し、「うーん、なるほど。そう言うことだったのか」とスッキリする。それで全人類がスッキリすればそれはそれでいいのです。ただ……。
『アダム』が導いた答えを「これが究極の真理だ」と決めることは誰もが出来る。でも、それが本当に「究極の真理」なのかどうかは誰にも分からないし、知る術もない。と、ここまでは、哲学におけるソシュールや科学におけるトマス・クーン、もしくは数学におけるゲーデルの「不完全性定理」と同じ結論、つまり、原理的に答えられないという答え。
では、この壁を突破すると、その先に見えるのはどんな景色か?
『アダム』は神ではない。そして『アダム』には「自分は神だ」と宣言する以外、自分の導いた答えが「絶対に正しい」ことを証明する術がない。そう考えると、百年後、千年後、例え未来において、どれほど高度に科学が進歩したとしても、人間の根源的な問いはグルっと円を描いて振り出しに戻ってしまいます。難解な科学や数学の命題は解けたとしても、コンピュータには哲学の問題(~とは何か?)を解決することが出来ない。しかし『アダム』に「自分とは何者なのか?」と『アダム』自身の起源を思考させることは可能です。
『アダム』も含めて、この世界のすべてのはじまりとは何なのか? この世界はどこから来たのか?
では、『アダム』に代わって私が『アダム』の起源を辿ってみることにします。
100年後の超高機能コンピュータである『アダム』の起源を未来から過去へ辿って行くと、その「はじまり」は、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズよりもはるか昔、ジョン・フォン・ノイマンやアラン・チューリングよりも、さらに前、1791年生まれのイギリスの数学者、「コンピュータの父」であるチャールズ・バベッジに辿り着きます。でも、バベッジが考案した「階差機関」のコンセプトの、さらに起源までさかのぼって行けば、古代ギリシャで紀元前に作られたとされる「アンティキテラ島の機械」に行き着くかもしれない。その「アンティキテラ島の機械」を作るためには数学や物理学の知識が必要で、そうした学問の起源を辿れば、そもそもはこの世界に文字や数が誕生する必要があった。では、文字や数とは何か? というと、人間の頭の中にあって、人間が相互にコミュニケートしている言葉をヴィジュアライズしたのが文字や数です。イルカやチンパンジーも言葉を持っていると考える人もいらっしゃるでしょう。「言葉とは何か」という問題を突き詰めてしまうと、人類学や言語学の非常にややこしい議論に巻き込まれてしまうわけですが、『アダム』が人間であれマシンであれ、問題の本質は「知性の起源」です。そして「知性の起源」とは「言葉の起源」に他なりません。
私は、それまで植物、昆虫から類人猿に至るまでの生物が使っていた「コミュニケーション言語(アナログ・システム)」が、自然界における、ある事件をきっかけに、ホモ・サピエンスという種の頭の中で「記号言語(デジタル・システム)」に進化したと考えています。原初の地球から突然、遺伝情報が発生したように。そう、言葉とは「情報の遺伝子」と呼んでもいいでしょう。
では、そもそも、その「情報の遺伝子」である言葉は、どうやって生まれたのか?
最初の情報は宇宙からやって来たと真剣に考えている科学者もいます。でも私は、この地球上で、情報が自然発生したと考えています。そして情報の起源、自然界に情報が発生した仕組みさえ分かれば、この世界の謎はすべて解けます。なぜなら、時間にせよ空間にせよ宇宙にせよ自分にせよ「存在」とは、すなわち情報だからです。
「世界」が生まれてから「言葉」が生まれたのではなく、「言葉」が生まれたから「世界」が出来たのです。物質である自然界に情報が生まれ、その情報によって人間は二次的な世界を作り出したのです。
この自然世界で、サルの頭の中に、あるきっかけで言葉=記号=情報が生まれたことにより、人間の歴史がはじまった。それが、この情報世界の創生を論じた言語発生起源仮説です。
この、言葉の起源についての議論は、とても奥が深く長くなってしまうので、ここではこれ以上、触れませんが、興味がある方がいらっしゃいましたら『THE ANSWER』を読んで頂けたらと思います。そこには、少なくとも、私が「答え」と考える「答え」が、ちゃんとハッキリ書いてありますから。
*『大統一理論(GUT)』
この「言語発生起源」さえ理解していれば、それがどんな難問であれ、解けない理論的命題はありません。では「言語発生起源仮説」という刀がどこまで切れるか「大統一理論」という超難問で試してみます。
いきなり「大統一理論」と言われても多くの人には、何のことやらさっぱり分からないと思いますが、一言で言えば、アインシュタインが死の床で夢見た、そして、すべての物理学者が究極で夢見る「万物を統一する理論」が「大統一理論(Grand -Unified Theory=GUT)」です。ただ、多くの方々は「大統一理論」の前提となる最先端の理論物理学も、よく分からないと思いますので、科学雑誌『ニュートン』の「宇宙はほんとうに無から生まれたのか」という巻頭特集から記事を一部抜粋してみます。
自然界には、重力、電磁気力、強い力、弱い力という四つの力がある。このうち、強い力と弱い力は、ミクロの世界でしかあらわれない。
電磁気力、強い力、弱い力の三つについては、細かい点は未完成ながら、同じ枠組みの中であつかうことのできる(統一する)理論が存在するが、重力だけはどうにも統一されないまま残っている。ミクロな世界での重力をあつかえるようになる量子重力理論は、四つの力を統一する究極の理論になると期待されているのである。
現在、この究極の理論に最も近い理論として注目を集めているのが、「超弦理論(超ひも理論)」だ。
現在の物理学では、ありとあらゆる物質、および四つの力を伝えるものはすべて「素粒子」という、大きさのない「点」からできていると考えられている。素粒子の種類は多く、数え方にもよるが十数種類以上は存在する。実はこの状況に満足できない物理学者たちもいる。別に種類が多くてもいいではないかと思う人もいるだろう。しかし、物理学者は、自然界の現象をいかに統一的に説明するかを追求する傾向がある。『登場人物』は少なければ少ないほどよいと考えるのである。
……科学理論ってややこしいですよね。科学はいったい、いつからこんなにカルトでオタクな領域に踏み込んでしまったのでしょう?
アインシュタインがなぜ一科学者にとどまらず、あれほどの世界的英雄になったのかというと、彼は本質的には「科学者」ではなく「哲学者」だったからです。すなわち「なぜ? どうして?」という子どものような疑問を素朴に突き詰めて行くうちに科学に新たな地平を切り開いた。だからこそ、その理論自体がよく分からなくても、大衆は彼の世界に対する眼差し、宇宙に対するスタンスに共感出来たのだと思います。
ところが、アインシュタインの一般相対性理論(マクロの世界を扱う理論)の後に量子力学(ミクロの世界を扱う理論)が生まれ、この二つの理論の統合が物理学の悲願になった。この二つの理論を統合出来れば、それが「万物を統一する究極の理論」になると多くの科学者が考え、その急先鋒として出現したのが超ひも理論です。
ごく簡単に言えば、超ひもとは大きさのない(長さのみが存在する)巻毛状の仮想物質。この、ひもの振動によって宇宙のすべてが形作られるという哲学が超ひも理論です。
この、ひもは26次元の世界に存在すると想定され、実験によって検証することが不可能。超ひも理論は序論だけでも最低50回の講演が必要で、物理学者にすら全容を理解することは困難です。
なぜ、こんなにややこしいことになってしまったのか?
ニュートンやアインシュタインは「なぜ? どうして?」という素朴な疑問から科学しました。けれど、現代物理学の最先端では数学的な整合性を取るために、科学的にではなく数学的に理論を組み立てているからです。つまり、現代の先端的理論物理学者たちは、自分たちが扱っている理論が実際の現実自然世界と関係があるかどうかはおかまいなし、理論のための理論であることを先刻承知で科学しているのです。現実には作れないバーチャルな料理のレシピを一生懸命書いているようなもの。
冷静に考えれば、26次元に存在する検証不可能な、そして説明に膨大な時間を要する仮想物質についての理論なんて『空想科学読本』の中でSFアニメ「機動戦士ガンダム」のミノフスキー粒子について研究することと同じであることは自明と思います。
百歩譲って、超ひも理論が「万物の最終理論」だと証明されたとしましょう。その理論を理解出来る人がこの世界に何人いるのでしょうか? そして、そんな誰にも分からないようなマニアックな理論が万物を統一したとして何か意味があるのでしょうか? それで万物を説明した、理解したと言えるのでしょうか?
なぜ、この超ひも理論に多くの科学者が熱狂しているのかと言えば、他に「万物を統合する理論」の候補が存在しないからです。でも、もっと単純に考えてみて下さい。ピダハンは、とっくに、過去と未来も時間と空間も有と無も、そして四つの力も統一しているのです。彼らは、そうした概念を元々、区別していないから。つまり、言葉をゼロにすれば万物は簡単に統一出来る。すなわち、それが「大統一理論」なのです。時間や空間、過去や未来、粒子と反粒子、虚数と実数、ミクロやマクロを区別して考えている科学者の方が大いなる勘違いをしています。常識は必ず覆(くつがえ)る。かつて、天動説が世間の常識だったように。そして、地動説がそれまでの世界観を180度反転させたように。
「まあ古代ギリシアの宇宙論のことを考えてみてほしい。そのころの人間は宇宙を亀の背に乗った球だなどと信じこんでいたではないか。今でこそわれわれはこの迷信を笑っているが、今から100年後の未来の科学者たちは、この20世紀の宇宙モデルを顧みて何と思うだろうか? おそらく今のわれわれと同じように頭をふって呆れかえるにちがいない」
プリンストン高等学術研究所教授であり、アメリカ物理学会の会長も務めたジョン・バーコールの言葉です。
情報は細分化すればするほど下から上に向けて逆三角形を描いて、どんどんどんどん膨張して行くわけですから、難しく考えれば考えるほど、新しい概念を作り出せば作り出すほど統一からは遠ざかります。だから統一するのならベクトルを真逆に向けて、情報が拡散する前のゼロ・ポイント「逆三角形の頂点=言語発生起源」で統一するしか方法はないのです。
もともと区別する必要のないものを区別して考えて、それを今度は統一しようとしているわけですから、統一するなら区別しなければいいだけの話です。コロンブスの卵と言うかコペルニクス的転換として。
もともとあったのは一枚の「象の絵」です。人間は、その「象の絵」をどんどんどんどん細かいピースに分けて行き、やがて元々何の絵が描かれているのか分からなくなってしまった。そして今度は、そのバラバラになってしまったパズルを復元するために、さらに細かくピースを砕いて余計に訳が分からなくなってしまっているのが現代の科学です。手の中にあるパズルの欠片(かけら)をいくら顕微鏡の拡大倍率を上げて研究してみても、決して絵の全体像は分からない。でも、完成したパズルをロング・ショットで俯瞰すれば、そこに描かれているのが「象の絵」だということは誰でも分かる。
現代科学のすべてが無駄と言うつもりはありません。ただ、難解な専門用語や数式を使った理論の方がかっこよく説得力があるように感じられますが、一方で多くの(まっとうな)科学者が考えるように、大統一理論の目標は「あらゆるものの理論」をTシャツの胸にプリント出来るほど簡明にシンプルに記述することにあります。
かつてアインシュタインは「科学と宗教はいずれ一つに結びつくだろう」と語りました。科学理論のみならず、科学と宗教も言葉の発生起源(情報起源)というゼロ・ポイントで完全に統一出来ます。なぜなら、哲学も科学も宗教も、すべては情報に過ぎないからです。
私は、この逆三角形の頂点に君臨する言語発生起源仮説こそが「万物の最終理論」=「最終的な情報の統合」であると確信しています。科学的に証明出来るかどうかは関係ありません。あなたが納得出来るかどうかの問題です。そして全人類が納得した時に、その答えははじめて真理になるのです。
*『生命の起源』
「生命の起源とは何か? 生命はどのようにして地球上に発生したのか?」ということもまた、生物学者のみならず、人類究極のテーマと言えるでしょう。では生命の起源について考察する前に、まず、前述した『結婚というバインド』の内容に立ち返ってみたいと思います。
例えば、私がAさん、Bさん、Cさん、Dさん、Eさん、という5人の女性と交配し、各々の女性が二人ずつ子どもを産んだとします。そうすると、社会通念を外して考えれば、この10人の子どもは私にとっては等しく自分の子どもです。しかし、女性であるAさんにとっては自分の子どもはあくまで自分にとっての二人の子どもだけ。だから、私がAさんと、彼女の子どもだけをプロテクトする=家庭を持つ、というのは生物としてはナチュラルな有り方ではない。というのが結論でした。
では、そこからさらに進んで、なぜ、ヒトのオスとメスは、このような違う生物学的ミッションを持っているか考えてみて下さい。
もし、この世界に男性(アダム)と女性(エバ)が一人ずつしか存在しなかったとします。そして、このペアの間に男女一人ずつ子どもが産まれたとします。その男の子と女の子が交配(近親相姦)し、また子どもを生むと、血が濃くなり過ぎて、遺伝子の多様性が失われる。でも、もし、この世界に男性一人、女性二人がいて、男性の遺伝子が二人の女性に受け継がれ、彼女たちが男女一人ずつ、計4人の子どもを生めば、次の世代の遺伝子には4通りの組み合わせパターンが生まれる。そうすることによって遺伝子は多様性を獲得し、より広く頒布(はんぷ)して行くことが可能になります。
オスは遺伝子を受容体にインプットするのがミッション。一方のメスはインプットされた遺伝子を体内で自分の遺伝子とミックスし、ハイブリッドされた遺伝子をアウトプットするのがミッション。そのオスとメスの役割分担によって、ヒトは種として繁殖、繁栄して行った。そもそもは、こうしたストラテジー(戦略)を取るために、生命は「性」を分化する必要があったわけです。こうしたオスとメスの交配によって繁殖した種が、さらに環境に適応し分岐して行くことによって現在の多様な生態系が形成された。
ここまでが大枠でチャールズ・ダーウィン(1809-1882)の進化論です。でも、ダーウィンには、どうしても分からないことがありました。
遺伝情報という側面から進化論を考えれば、すべての生物種はどこかで系統樹につながっている。では、その系統樹を一番根元まで辿って行った時、最初の種子はどこから来たのか? というのが生物学における最大の謎です。
現在、この問題について、生命の種子は宇宙からやって来たのだ(パンスペルミア仮説)と考えている科学者もたくさんいます。
普通、私たちは「ネコ=生命」「石=非生命」と考えています。でも、この生命/非生命の境界線の定義は、今のところ誰にも出来ていません。つまり「生命の起源とは何か?」を考える前に「生命とは何か?」という問題すら解決出来ていないのです。
一般に、自己複製出来る個体を「生命」と考えている方が多いと思うのですが、例えばコンピュータの中で自己複製する「人工生命」という生命が存在します。
人工生命は、最後のかなりのページが切り裂かれた探偵小説のようなもので、もともと生命がどう発生したかをはっきり決定付けるものにはならないだろう。しかし人工生命の実験によって開拓された、創出についての新しい方法論は、生命の起源を含む生物界の謎をより深く理解できる可能性を持っている。スクリプス研究所で、長年にわたって生命の起源に関する細かな事実を追いつづけてきた若い医学研究者ジェラルド・ジョイスは、90年代の初頭に生命の起源の実験に対して人工生命の手法を使い、より保守的な仲間と一線を画するようになった。彼はRNAの世界(彼はカウフマンと違って、これが生命の生成の鍵になる段階だと信じているが)を定常的にシミュレーションしており、研究室で起こっていることが、前生命的な地球の状況とよく似ていることを認めている。
スティーブン・レビー著『人工生命』(朝日新聞社)
ゆえに「生命とは何か?」を考えはじめてしまうと、何が何だか分からなくなってしまうので、シンプルに「遺伝情報を持つ個体=生命」と考えてみます。遺伝情報とは何か、というと、それが細胞の中にある遺伝子に書き込まれている情報です。そして、遺伝子は「DNA」「RNA」「タンパク質」という三つの概念によって成立しています。
現在、遺伝子ベースで生命の起源を考えている生物学者の学説は三つ。原初、生命の発生基盤がどこにあったかで意見が分かれ「DNAワールド仮説」「RNAワールド仮説」「プロテインワールド仮説」という三つの考え方が提唱されています。この三つの仮説を統合出来れば、それが生物学における「大統一理論」になります。
ただ門外漢には、DNAとかRNAとかプロテインとか言われても混乱してしまうので、仮にDNAを「オス遺伝子」、RNAを「メス遺伝子」、プロテイン=タンパク質を「こども遺伝子」と呼んでみることにします。
このオス遺伝子がメス遺伝子とセックスして「タンパク質」という名前の子どもが生まれるプロセスの名称が「エヴァンゲリオン」で有名になった「セントラルドグマ」。
一般的には「オス/メス」=「ペニスのある方/ヴァギナがある方」という形状でイメージをしてしまうけれども、生命の本質が情報であるならば「インプットする方(オス)」+「インプットされる方(メス)」→「ハイブリッドされた情報(子ども)」というのがシステムの構造です。
さてここで『真理への道』のチャプターを振り返ってみます。
私が考える言語発生起源仮説というのは、単純に言うと「イヴ」というサルの頭の中で、視覚(ヴィジュアル・データ・インプット)と聴覚(オーディオ・データ・インプット)が偶然コネクトしたことによって言葉=記号という「最初の情報」が発生した、という仮説です。考古学的、人類学的には何の根拠もありません。紙とペンすら使っていません。純粋思考のみで辿り着いた結論です。
私たち人間が認識する世界が「物質+情報」で成立しているように、生命も「物質+情報」で成立しています。であるならば、脳(物質)から記号(情報)が発生した仕組みと、単なる物質から遺伝情報が発生した仕組みは相似形と見なすことが出来るのではないか、というのが今回、私が立てた仮説です。前者を「言語発生起源仮説」と呼ぶならば、後者は「遺伝情報起源仮説」。
もし私の考え方が正しいならば、ある程度の複雑な構造を持った物質(言語発生における脳に相当するもの)に二方向から刺激が加わり、その二種類の入力が偶発的にコネクトしたとすれば情報が自然発生することは可能だった。
具体的にどのような物質の中で、どのような刺激とどのような刺激がコネクトしたのかは、私には分かりません。ただ、その二方向からの入力を行ったのが「太陽」と「地球」であることは間違いないと思います。
オス(インプットする方=DNA)に相当するのが太陽、メス(インプットされる方=RNA)に相当するのが地球、その両親の間に産み落とされた子ども(タンパク質)が、私たち生命なのだと思います。
恐らく生命は、神の意思が働いてこの地球上に誕生したわけでも、どこか目的地があって進化して来たわけでもないのです。生命の誕生と進化は、地殻が変動することと同じ単なる自然現象。生命の発生も、人が生まれ死んで行くことも、石が転がり割れ、その欠片が川に落ち、流れに削られて丸くなり、海まで運ばれることと同じ森羅万象における自然の営みの一つ。逆に考えれば、ある物質の中で二つの刺激がコネクトすれば、地球以外の場所にも、情報体としての生命は発生し得るのではないでしょうか?
まあ、生命がどのようにして発生した(する)のかが分からなくても、誰も何も困らないわけではありますが。
何でもかんでも知りたがるのは人間の長所でもあり、短所でもありますが、他の惑星に生命体が存在するか、否かを調べるためだけに、より小さな素粒子を探すだけのために、気が狂ったように莫大な国家予算を使うのは、いかがなものだろうか? とは思います。自分の金で何かするなら「やりたいから」で理由は十分ですが、他人の金で何かするなら「何のために」という視点はやはり必要だと思う。例え、人間に、そして生命に存在することの意味も理由もなかったとしても。
*『病のメカニズム』
「あんたねー、病気なんて、女のケツ追っかけて、野山を駆け回っていれば治っちゃうのよ!」
昔、私の主治医だった女医の言葉
私の部屋には顕微鏡も試験管もありませんし、赤血球と白血球の違いも分かっていません。なので、見当違いなことを書いているかも知れませんが、これは医学のド素人が純粋思考のみで行った、病という情報系のシステム解析だと思って読んで下さい。
病気もまた、一つの情報のカタチと考えた場合、人間社会からすべての病を駆逐することは可能でしょうか?
難しいことを考えなくても、人間が病気にならない方法が一つだけあります。引用した先生の言葉ではありませんが、そのための「万能薬」とは動物(動く物)として生きること。少なくとも私はガンで死んだ、という野性動物の話を聞いたことがありません。
人間に飼育されている動物はいろいろな病気に掛かります。なぜか? ストレスからです。そのストレス=圧力をかけているのは人間です。では、なぜ人間はストレスを抱えるか? 言葉を持っているからです。言葉を持たないナチュラルな自然存在は、人生について悩まないし、意図や企みを持ちません。ゆえに自分自身や他の自然存在に不自然な負荷を掛けない。
単純に考えてみて下さい。今の不自然で人工的な除菌ブームが極限まで推し進められて、人間が完全な無菌状況下で生活するようになったとします。そうすると、完全無菌状態に身体が適応した人間は、ほんのわずかな菌に感染しただけで死ぬようになると思います。逆に菌がたくさんいる環境に適応した人間の身体は強くなる。
現代日本社会は「除菌、除菌」と大騒ぎですが、例えばピダハンのような人々は、手や食器や食材を除菌することなく食事をしても、まったく問題はないわけです。そうした生態系の調和の取れた場所に、ばい菌を持ち込むのは、むしろ先進国の人々です。
ばい菌とは、人間の意図に反して増殖した、有害な微生物(細菌/菌類)を指します。ウィルスも一種のばい菌ですが、ウィルスは細胞(身体)を持たないため、一般的には生命とは見なされない情報体です。言うなればハードディスクを持たないデータそのもの。
野性動物がいわゆる病気を発症しないのは、自然存在にとってウィルスは悪として作用しないからです。では、なぜ人間にとってはウィルスが悪になるか?
ウィルスとはすなわち、人間に対する地球生態系の自衛メカニズムなのだと思います。言い換えると、人間というウィルス・ソフトに対して働く、自然界のアンチ・ウィルス・ソフトが本物のウィルス。
人間は、ウィルスを敵とみなして攻撃しますが、地球生態系にとっては、人間の方がむしろ悪性腫瘍のようなもの。では、なぜ人間が悪者になってしまったかと言えば、言語発生し、言葉という二次(亜種)情報系を持ったことにより、人間が反自然的な存在になってしまったからです。
例えば、環境破壊を生み出す資本主義経済という思想/概念/意図/企みの起源を、ずーっと過去にさかのぼって行けば、そもそもの原因は言葉の発生にあったわけです。
だから、人間を苦しめる病全般の根治を考えるならば、ウィルスを悪と見なしてやっつけるというスタンスから、ウィルスを悪者に転化させない方法を考えるべきです。
心の病が心の自衛メカニズムであるように、人間をウィルスによって死に至らしめるのは、地球生態系の自衛メカニズム。心の病の根治を考えるならば、心を薬物で無理やりコントロールすることを考えるよりも、心が病む原因を突き止め、その原因を作っているストレスを取り除くことが必要です。
言葉という眼には見えない記号(情報)が地球に物理的に作用することが感覚的に腑に落ちないかも知れません。でも、言葉はストレスを作り、そのストレスは人間を蝕(むしば)みます。そして、人間が病んで不自然な文明を作れば、地球も病みます。地球が病めば、生態系もウィルスという防衛システムを発動させて、人間というウィルスに反撃する。もし、今の形での文明を人間が無理やり推し進めて行けば、間違いなく、地球生態系はより強力な防衛システムを発動させるでしょう。
生態系を抑圧するストレスの原因を作っているのは人間です。その人間社会からストレスが消えて、人間が健全になれば、地球も病む必要がなくなるし、地球に病む必要がなくなれば、人間が病に苦しむこともなくなります。
すべての病気の根源は、ストレスにあると私は考えています。ストレスを抱えなければ、人間も地球も病気にはならない。
ストレスを抱えない人生なんて、有り得ないと思いますか? 私は有り得ると思います。
人間が、そして地球が根っ子から健康になるためには「言葉の断捨離(だんしゃり)」をすることが必要なのではないでしょうか?
散らかった部屋の中から余計な衣服や装飾品を見極め処分するように、人間の頭の中から不必要な言葉を取り除いていけば、人間は余計なことは考えずに済むし、ストレスも抱えない。そして、誰もが不必要な情報を、未練を残さず思い切って捨ててしまえば、自ずと社会もシンプルなものとなり、自然との調和を取り戻す。その「言葉の断捨離」のお手伝いをさせて頂くガイド・ブックが本書『ハートメイカー』です。
盲目的なエコロジーを唱えるつもりはないし、狼と兎が寄り添って眠ることができるとも思ってはいない。人間が、みなピダハンになればいいとも思わない。けれど、手遅れになる前に、地球生態系との戦争を終わらせることが人類の総意であることを願って止みません。
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【定価】1,620円
【発行】2015年3月11日
【総ページ数】221ページ
【版元】青山ライフ出版
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