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もし、この本を世界中の人が読んだ時点で世界平和が実現していなかったら私の命を差し出します。:著者

6:経済的な問題の解決マニュアル

 

*『仕事とお金、企業の栄枯盛衰』

 私は本質的に「作家」でも「哲学者」でもなく、『THE ANSWER』や『ハートメイカー』と同種の作業をしている人間がこの世界には一人もいない。仲間もライバルも目指すべき人もいないから、私の仕事を理解してくれる人はほとんどいません。でも、他者に多くを望んでいるわけではないのです。研究資金を援助して欲しいわけでもないし、肩を揉んで欲しいわけでもない。ただ、誰かに、ちょっとでいいから気持ちの上で寄り添って欲しいだけなのです。そんな時、ふと思いました。「ああ、社会福祉って、こういうことなんだ」と。
 つまり、助けてくれる人がいない人を救うのが福祉の本質で、それを一人でやるには限界があるから、そういう「優しさ」を社会システムとして作り上げて、人々を救うのが社会福祉なのだと思ったのです。でも、社会福祉に携わる人々は表現の技術は持っていない。だから、そういう仕事をしている人たちに代わって、人々の思いを表現として変換して、広く、世間に告げ、人と人を、社会と社会を繋ぐのが広告。そう考えると、仕事の本質は、お金を稼ぐことが目的ではなく、社会における、それぞれの役割分担なのだと思いました。家庭の中で、ゴミ出しや布団干し、炊事洗濯、風呂トイレ掃除、育児の役割分担があるように。そして、お父さんがお金を稼いで来て、そのお金で主婦が家族の面倒を看るように、お金を生み出す職業の人たちが稼いだお金で、福祉に携わる職業の人たちが弱者の面倒を看る。
 「仕事は役割分担」という考え方は、分刻み、1円単位で仕事をしていらっしゃる方にはピンと来ないかも知れませんが、そこでふと、心を落ち着け、気持ちをフラットにして、頭の中だけはるか古代日本に思いを馳(は)せてみて下さい。
 日本で最古の流通貨幣は、708年(和銅元年)に鋳造・発行された銭貨・和同開珎(わどうかいちん)であると言われています。つまり、これ以前、日本では米や布の物々交換でマーケットは回っていた。物々交換のマーケットというのは等価交換の経済ではありません。貨幣経済に慣れきってしまっている現代人には物々交換の社会がうまくイメージ出来ないと思いますが、例えば、正看護婦の資格を持っていた私の祖母(享年98歳)は、太平洋戦争中、疎開先で山村のけが人や急病人の手当てに奔走し、一切の謝礼を受け取らなかったために、朝、雨戸を開けると、獲れたての農作物が置かれており、戦時下でも食べるものに困ることがなかったと話していました。祖母は損得勘定で動く人では決してないから、お礼を期待して人々を助けていたわけではないのは確かですが、そのサービスと物の交換があったからこそ、現代とは比べ物にならいほど厳しい時代を生き延びることが出来た。これは等価交換ではなく、そして、これこそが仕事の本来の姿だと思うのです。
 かつて、私たちは自分に出来ることを一生懸命やって、互いに支え合いながら生きて来た。そこに等価交換の概念はなく、どっちが多いとかどっちが少ないとか、誰が得だとか誰が損だとか、きっと考えてはいなかった。仕事とは本来、そういうものだった。ある人は作物を育て、ある人は灌漑(かんがい)を作り、ある人は狐を狩って、ある人は木を切り倒していたかも知れない。そんな人たちの子どもをまとめて引き受け、面倒を看ていた肝っ玉母さんもきっといたでしょう。そこには金なんてなくて、それぞれがそれぞれの役割分担を引き受け、支え、支えられながら生きていた。つまり、その世界では金を稼ぐために仕事をしていたわけではないのです。
 でも、私たちは違います。私たちがなぜ仕事をするかというと、多くの場合、金を稼ぐためです。では、なぜ金を稼ぐかというと、金がないと生きていけないからです。では、なぜ金がないと生きていけないかというと、現代社会は「等価交換」という仮想概念に上に構築されているからです。
 私がいくらがんばって原稿を書いても、その原稿が金にならなければ、現代社会においては、私のやっていることは仕事とは見なされません。でも、もし今、私が属しているのが等価交換の社会でなければ、私の書いた文章で「魂が救われました。ありがとう」と言ってくれる読者が一人でもいれば、私のやっていることは立派な仕事です。
 元来、私たちは、金を稼ぐことを「仕事」と呼んで来たわけではありません。仕事を意味する「トラバーユ」「アルバイト」「レイバー」といった欧米圏の言葉の、そもそもの語源は「拷問の道具、苦役、苦痛、奴隷、下僕、下男」を意味するラテン語やゲルマン語にあります。でも、日本語の「仕事」は「道徳、教養を身に付け、人の道を修め、人のために動くこと」を意味していたそうです。かつては。
 経済状況の厳しい現代にあって、それでもなお最後に生き残るのは、金儲けが上手い人ではなく、自分のミッションを自覚し、見失わなかった人だと思います。例え金儲け競争に負けたとしても、そういう人のプライドは傷付かない。逆に、東大に合格することだけを目標に勉強して来た学生は、東大に入学した途端、人生のミッションを見失う。
 私は若い頃、当時、本国でトップ・クラスの売り上げを誇っていた外資系の広告代理店で3年ほどサラリーマンをやっておりましたが、自分の会社が、そもそも何を目的として作られた会社組織なのか、自覚して働いているサラリーマンの方は、ほとんどいないのではないかと思います。
経営のことなど何も知りませんが、傍から見ていると、企業の栄枯盛衰は必ず同じパターンを辿ります。

熱い思いを持った創業者が熱い商品を作る→その商品がヒットする→組織が拡大し、社員が増える→その社員を養うために、もしくは組織の維持/拡大のために、さらなる「売れる」商品を作ろうとする→創業時点のミッションが忘れ去られ、会社のオリジナリティーが失われる→ファンが離れ、組織が衰退する。

 こうした本末転倒を未然に防ぐために、創業者は「会社理念=ミッション・ステートメント」を掲げるわけだけれど、結局、そうした初期理念は、額に入れて、壁に飾られるだけのお題目になり、どんどん会社は本道を逸脱し、どこにでもある企業に成り下がる。
 例えば、このパターンは、創業初期に私が、その「ミッション・ステートメント」の有り方に熱く感動したスターバックスにも当てはまります。

 スターバックスにも同じことが言える。ハワード・シュルツは、優れたブランドを作る目的で会社を起こしたのではない、と述べている。結果的にそうなっただけなのだ。むしろ、シュルツは優れた商品を作り、優れたカフェを作り、優れた人材を雇い、株主に利益を還元することをめざしてきた。そして、この四点がスターバックス・ブランドの基本理念になった。
スコット・ベドベリ著『なぜみんなスターバックスに行きたがるのか?』(講談社)

そもそもスターバックスは、清涼飲料にマーケットを取って代わられた「コーヒー」の本当の素晴らしさを伝えたい、という熱い思い、ただその一念からはじまった企業です。そのスターバックスが今、炭酸飲料やエナジードリンク市場を取り込むための商品展開をはじめています。また『ドラゴンボール』や『はじめの一歩』等の漫画は、人気が出たがゆえに出版社の意向でマンネリのまま連載を長期化させられてしまい、コアなファンが離れる。こうした本末転倒は病院や大学や政党でも起こるし、売れっ子作家にもアーティストにも起こります。
当たり前ですが、お金というのは、あくまで人が作ったものであり、自然存在ではなく人工物。経済は本質的にはインターネットや上下水道と同じインフラ(インフラストラクチャー=社会基盤)です。
社会というのは、本質的にはインフラを整備することをミッションとして発展して来たわけだけれども、ではなぜインフラを整備するのか、経済を発展させるかと言えば「安心、安全に」暮らすためです。でも、今、社会は、その目的と手段が転倒して、金を生み出すために金を稼ぐ経済の奴隷になってしまった。人生を楽しむためにゲームを買ったのに、そのゲームにハマり過ぎて人生破滅したら元も子もありません。
お金のそもそもの起源は、物々交換を便利にするために作られた道具(ツール)だったわけです。つまり、お金は目的ではなく、あくまで手段だった。
もし、本気で世界の安定と平和を望むなら、経済の目的と手段を転倒させていけない。経済の本来のミッションを見失ってはいけない。目的と手段が転倒したものは、確実に本道を外れ、いずれ自滅する。世界の根本でパラダイム・シフト(価値観の大変動)が起こり、人間の欲望の有り方が変化し、例えば「シンプル・イズ・ザ・ベスト」「無理に長生きするのではなく、どうやったら上手く死ねるか」とか「禅的清貧=善」「ピダハン・ライフ」のようなヴィジョンが多くの人のコンセンサスになれば、経済成長のみを信条として来た資本主義経済は針路を見失う。
今の社会にあっては、生きて行くために、お金はもちろん必要です。でも人間は、心の欠落を埋めるために金や物を必要とするのであって、心が満たされていれば金や物なんて、そんなに必要なくなる。そして、誰もが内心で気付いているように、金や物をいくら増やしても心の欠落は埋まらない。
1億円の宝くじに当たったら使い道に迷うけれども、総資産が100兆円あったら、逆に、欲しい物なんて無くなってしまう。だから何事も、ほどほどで良いのです。お金をむやみやたらと増やすことよりも、自分にとって、そして、社会にとって、どの辺りが、ちょうど良いほどほどなのかを見極めることの方が、余程大事。
 現代人は、スマホ片手に数と時間に追われ、毎日、とても忙しい。でも、自分の心と正面からきちんと向き合うことをしないと、人間は幸せになれない。満たされない。
時には、ふっと立ち止まって、自分が何のためにその仕事をしているのか、経済の本質って何なのか、考えてみることも必要なのではないでしょうか?

*『経済の辿り着く場所』

 そうは言っても「金は金だ。おれは金が大好きだ」という方も多々、いらっしゃるでしょう。そういう方は間違いなく株をやっていて、株価の上下が100%予測出来たら、どんなに素晴らしいだろうと夢見ていらっしゃるかも知れません。でも、原理的には未来における世界経済の推移を予測することは可能です。こんな思考実験をしてみて下さい。

人間が、未来における株価を100%正確に予測することが可能になったら、世界はどうなると思いますか?

 私は3年前に『火の鳥0528』という作品を書きました。以下が、その時付けたキャッチ・コピーです。

「通称『火の鳥』。その薬が人類のすべてを変える/もし、不老不死の薬が誰でも無料で手に入るとしたら、あなたは飲みますか?」

すべての病気を治癒し、人間の老化を食い止める「不老不死の薬」が完成したら、そして、人間に「死なない」という生き方を選ぶことが可能になったら、人間の価値観や人生観はどう変化し、世界はどう推移するのか、という設定で執筆した近未来SF小説です。
この作品自体は出版されることなく、陽の目を見ないままにボツ原稿の山に埋もれてしまったのですが、クライマックスで「人類の経済が辿り着く場所」を描いているので、手前味噌で恐縮なのですが、一部引用してみます。長い引用になりますので、短編小説を読む気分で楽しんで下さい。そして、この引用を読み終えた時、前述の思考実験の答えは自ずと出ていることと思います。



 その年の秋、製薬中堅であるドイツの「バイエル・ゲーリング・ファーマ」が死んだ。同じく中堅のアメリカ「カムジェン」、デンマーク「ボノ・ノルディスク」、イスラエルの「ニヴァ製薬産業」が後を追い、世界15位の「武光薬品工業」と20位の「第二三共」も倒れた。「カイザー」をはじめとする世界トップメーカーも、もう余命いくばくもない状態に追い込まれていた。この事態を受け、東京で30カ国緊急蔵相会議が開かれた。会議の様子はネットでリアルタイムに中継され、「ノーム」上で、常時、世界中から意見が寄せられ、議論に取り込まれた。
 「火の鳥」がある以上、製薬業は淘汰されて然るべき、という論調が全体的に強く、76時間、ぶっ続けの議論を重ねた末、企業としての再生の見込みが皆無であることから、各国政府は、製薬メーカーの救済を断念すると発表した。

「はい、リエです」
 リエ・マコール・トガクシは舌打ちしてから電話に出た。相手は、今日、何度目になるか分からないほど繰り返し聞かされた同じ話をまくしたてた。
「はい……はい……はい……はい」
 そして、リエは、何度目になるか分からない同じ説明を繰り返した。
「もちろん、スイスもリヒテンシュタインも、ダメです。……はい……はい……大丈夫です。今は、日本の地銀が一番安全です。……はい。この件に関しては、政府は黙認します。……はい……大丈夫です。念のために、弁護士と税理士が三重のフィルタリングをかけています。……はい……はい。ご安心ください。では、失礼いたします」
 ファック!
 リエは、切れた携帯電話をソファに向けて叩き付けた。携帯は、ソファのクッションで激しく跳ね、音を立ててフローリングの床に落ちた。
 まったく、どいつもこいつも、100%自分のことしか考えていない。これが、アメリカだ、とリエは思った。床の上の携帯が、再び鳴り出した。リエは「ファック」と、もう一度呟き、週に一度通うマーシャルアーツ・スクールで身に付けたローキックをソファに叩き込んだ。それから、ゆっくりと背中をかがめて、携帯を握り、可能な限り明るい声で電話に出た。
「はい、リエです」

「カイザー・インコーポレイテッド」CEO(最高経営責任者)、リエ・マコール・トガクシは、全世界10万人の従業員に向けて、ネット中継で呼びかけた。
「みなさん、かつて、戦場写真家であるロバート・キャパは、『私の夢は、永遠の失業である』と語りました。長い歴史を誇る、我が社が幕を閉じることは、個人的にも、非常に寂しく悲しいことであり、また、社を支えてくださった皆さんにも、計り知れぬご迷惑をおかけすることを、心からお詫びしなければなりません。しかし、我が社がここに解散するということは、これまで我が社が掲げてきた『何よりも健康な世界の実現へ向けて』というミッションが完了したことを意味します。火の鳥がもたらした世界の中で、キャパの夢も実現しつつあり、そして、また我が社の夢も実現しつつあります。そのことを共に喜んでほしいとは言いません。しかし、皆さんには、『カイザー』という場所で働いてきたことを誇りに思ってほしい。私たちは、多くの、本当に多くの人を救ってきました。その役目を、ここに終えることを、わたしは、喜びと悲しみの入り混じった思いで受け止めています。カイザーの経営陣は、私財を投げ打ってでも、一人でも多くの従業員の皆さんを救う覚悟でいます。皆さんが、この試練のときを乗り切ってくださることを、心よりお祈りしております。これまで、本当に、ありがとうございました」

 10月10日、かつて売上高5兆円を誇った世界最大の製薬企業、「カイザー・インコーポレイテッド」は、連邦破産法第11章の適用を連邦裁判所に申請した。
翌、10月11日、世界の株式市場は、洪水のように全面的な「売り」ではじまった。
製薬会社は、その規模を問わず、軒並み連鎖的に破綻、影響は医療機器メーカーに及び、続いて製薬事業と深い関りを持つ食品メーカーにも伝播していった。また、それまで「火の鳥」の効果を計りかねていた人々の間で、生命保険の解約が相次ぎ、生保会社は資金を手当てするために、保有する株式を売却せざるをえなくなった。
人々は、「火の鳥」がもたらした世界の中で、何が必要な産業で、何が無駄な産業なのか判断することができずにいた。そして、何が「買い」で、何が「売り」かという基準も、また持たなかった。市場は、極限まで老朽化したダムのように、カオスへと向けて、一気に決壊した。
 株価の暴落は医療関連以外の銘柄にもランダムに広がり、10月11日の発端から3週間で、世界の株式市場の時価総額は10分の1に縮小した。銀行やインベストメントバンクなどの大手金融機関の一角が倒産、国際金融市場は、さらに混迷の様相を呈した。大企業は株式市場から資金調達を行うことが困難となり、連鎖倒産が相次ぐ一方で、大手メーカーがかつてないリストラを断行、雇用不安が広がっていった。「火の鳥」により、世界的に労働者人口は激増、急激に減少した求人を、莫大な数の求職者たちが取り合うことになる事態となった。その危機は、規模とスピードにおいて、かつてのリーマン・ショックの比ではなかった。
「火の鳥エフェクトで、世界は1929年に逆戻りする」
あらゆるメディアが、世界恐慌の恐怖をあおった。
 ある家庭では、電気、ガス、水道が止められ、保護施設にすら入ることができず、一家4人が路頭に迷うことになった。また、世界の一部地域では、餓死者が出はじめた。人々は、資本家、労働者の区別なく、ただ、なす術もなく、巨大な滝に向かって押し流されるボートのように、その渦の中で翻弄されていた。
 一世紀近く前に流行した「名もなき歌」が、まるで時代の徒花のように、アレンジを加えられ、ストリートで再びよく聴かれるようになった。

景気は低迷 街は沈没
俺たちは破産 あとは死ぬだけ
食べるものもない 酒だって飲めない
でも偉い人は俺たちに笑えと言う
元気を出せ 市民たち
一文無しでも
幸せが再び訪れる 笑え愚か者たち
景気は上昇 腹が痛いくらい笑え
食料配給も終わり 笑え愚か者たち
明るく笑おう 楽観論者は言う
バカは縛り首だ
笑え愚か者たち……

 その年の12月は、「ブラック・クリスマス」と呼ばれ、世界は暗澹たる空気に包まれたまま、一年を終えようとしていた。

(中略)

 グローバリゼーションが高度に進み、ネットが極限まで普及、発達して情報が瞬時に共有される世界にあっては、世界の崩壊と再編成も秒速のスピードで進行し、「革命の季節」と呼ばれた、その世界的金融危機は急速に収束した。復興の直接のきっかけを作り、世界を救ったのは、「シュレック」という新型AI(人工知能)だった。
 1940年代、ベル研究所のクラウド・シャノンが、チェスの可能な駒の動きの総数を算定してはじき出した答え、10の120乗という数は、ビッグバン以来今日までのマイクロ秒時間や、観測可能な宇宙の中の素粒子の数より多かった。当時の研究者たちには、こうした駒の動きをすべて確かめることのできるコンピュータなど想像外だった。しかし、IBMのチェス専用スーパーコンピュータ「ディープ・ブルー」は、ついに、1997年、世界チャンピオン、ガルリ・カスパロフの頭脳を打ち破った。
 経済は本質的に予測不能といわれる。しかし、その予測不可能性は、量子力学のそれではなく、複雑系のそれである。つまり、チェスと同じように、「ファクターとプロセスが複雑過ぎて予測不能」の意味であり、因果律自体は存在している。そして、かつて不可能と言われた予測を「ディープ・ブルー」が可能にしたように、「シュレック」もまた、「神の見えざる手」の動きを、10分後まで予測可能にした。
 「シュレック」は、もともと、人工生命の生みの親であるクリス・ラングトンの弟子たちによって、遊び半分のゲームとして、サンタフェ研究所で開発された。その後、長い月日を経て、リーマン・ショックを契機に、FRB(連邦準備制度)が、公的に開発資金を投入、情報信用度の高度なアセスメント・システムを開発したグーグルと手を組み、実用化までは秒読みの段階にあった。
 「シュレック」と「ディープ・ブルー」の決定的な違いは、「ディープ・ブルー」が、与えられた計算を、ただひたすらこなしていくだけのトップダウン・システムだったことに対し、「シュレック」は、ネット上の情報を吸い上げて、独自に解析、思考、結論を出す、というボトムアップ・システムだったことにある。
 5月28日、「革命の季節」を収束させるために、IMF(国際通貨基金)の要請を受けたFRBは、それまでサンタフェの砂漠に封印してきた「シュレック」を、広大なネットの世界に放流した。「シュレック」は特許のないオープンソースとして使われたため、システムの透明性から、特定の個人、企業、地域、国家を優遇しない客観的判断が行われるツールとして、すぐに認知された。
 「シュレック」は、ある種のアービトラージ(鞘取り)として機能したため、「革命の季節」で売られ過ぎた株の大規模な買い戻しが発生、揺れ戻しが起きて、市場は「シュレック」投入から、僅か2週間ほどで正気を取り戻した。しかし「シュレック」には副作用もあった。「シュレック」により売られ過ぎた株が瞬時に察知されて、買い戻しが入るようになり、結果、世の中に売られ過ぎた株が存在しないという状況が生まれた。
 金融市場というものは、この株は安いと思って買う人間と、この株は高いと思って売る人間が存在することによって成立している。しかし、「シュレック」の出現により、相場が適正値から動かなくなり、株式市場、債権市場、通貨市場、「経済」という世界の血液が動脈硬化を起こしつつあった。
「シュレック」の影響で、金融市場そのものが世界的に意味を失い、通貨や金利が各国別に複数存在する理由もなくなった。半ば必然の流れとして、IMFは世界の通貨を「アース」に統一、結果、突出して富んだ国もなく、突出して貧しい国もなくなり、世界全体の生活水準は急激に均一化された。同時に、また、世界経済は、ただ老いていった。
 「革命の季節」を経て、世界は禅的で静かになった。一言で言えば、それは小欲知足の社会だった。
 「小さな欲で、足るを知る」。
 人々は、物質的にも精神的にも多くを望まなくなった。物をあまり買わなくなり、あるものを食べた。大きな夢や欲を持つことなく、情報を追いかけることを止め、最先端の科学技術にも、あまり興味を示さなくなった。ネットやテレビ離れが進み、画面を見ることを止めた人々は、本を読むようになった。そして、家族と遊び、友と語らった。同時に、世界から活力というものが失われていった。「老人病」と呼ばれる症状が現れ、ほんの少しだけを食べ、あとは、ただ、ぼーっと何もせずに無為に過ごす若者が増えた。「だって、疲れるじゃん」というのが、彼らの口癖だった。
(『火の鳥0528』 引用以上)



他の学問分野同様、現在、経済学もまた無数の研究分野に細分化されています。例えば2007年にノーベル経済学賞を受賞したレオニード・ハーヴィッツ/エリック・マスキン/ロジャー・マイヤーソンの受賞理由は「メカニズムデザインの理論の基礎を確立した功績を称えて」です。では、その「メカニズムデザイン」とは何か、ウィキペディアから引用すると、

メカニズムデザイン (英: mechanism design) とは経済学の一分野である。資源配分や公共的意思決定などの領域で実現したい目標が関数の形で与えられたとき、その目標が自律的/分権的に実現できるようなルール(「メカニズム」とか「ゲームフォーム」とも呼ばれる)を設計することを目指している。言い換えれば、与えられた関数が要求する目標を、各プレイヤーの誘因を損なうことなく実現できるようなゲームを設計することをメカニズムデザインでは目指している。メカニズムデザインは経済学のなかでも特に社会選択理論および非協力ゲーム理論、さらには契約理論やマーケットデザインと密接な関係を持つ。

こうした果てしなく細分化された枝葉の大元、「経済学」という大樹の根は『国富論』を著わした「経済学の父」アダム・スミス(1723-1790)です。でも、そもそも「エコノミクス(経済学)」の語源はギリシア語の「オイコノミクス(共同体のあり方)」。
つまり、データを駆使するための難解な研究はあくまで「共同体のあり方」を模索するための手段に過ぎないにも関わらず、経済学も本末転倒を起こしてしまい、現在、その最先端では手段を研究するための研究が行われているのです。
「共同体のあり方」を研究するのが経済学の本来のミッションならば、経済学の答えは恐らく一つしかありません。
引用文の中で「シュレック」が放流された後の経済状況を動脈硬化に例えました。でも今は別の感じ方をしています。経済の最終形態、経済の完成形、経済の辿り着く先は、きっと「高熱を取り除かれ平熱にもどった身体。静かに、しかし、しっかりと働く身体」。
現代資本主義経済の、さらに先の具体的な青写真を描けるだけの能力は私にはありませんが、経済の本質とは「何かと何かを交換すること」です。だから、必ずしも、この世界にお金が必要なわけではないのです。現代社会は数依存社会です。数に頼らないと何も判断できない。でも、何でもかんでも価値を数値化/客観化すれば良いというものではないと思うのです。例えば、私が疲れた誰かをマッサージしてあげて、そのお礼に、その誰かが、お腹を空かせた私にお米をくれる。そんな性善説に則った、穏やかで心安らぐ「共同体のあり方」に世界経済の最終形態が着地してくれたらいいな、と夢見ています。
 金(数)のために人を殺し、人を突き落とし、足を引っ張り合う。そんな世界が「正しい」と、99%の人は考えていないと思うから。


 

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【定価】1,620円
【発行】2015年3月11日
【総ページ数】221ページ
【版元】青山ライフ出版
 
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