5:宗教的な問題の解決マニュアル
*『聖書の解読』
まるで、パレスチナ人を「強制収容所」に押し込める壁のようだ。これが私の第一印象でした。かつてナチス・ドイツによって強制収容所に入れられたユダヤ人たちが、今度はパレスチナ人に対して、「強制収容所」を建設しているかのようにも見えてしまうのです。
池上彰著『池上彰の「世界が変わる!」』(小学館)
パレスチナ自治区とイスラエルを分離する壁を池上彰さん(1950-)が取材したおり、書かれた文章です。この壁は高さ7・5メートル、厚さ3メートル、完成すれば全長700キロに及ぶ巨大なコンクリート壁。壁の上部には鉄条網が張り巡らされ、随所に監視塔があります。
パレスチナは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、三つの宗教の聖地・エルサレム(シオン)を擁する土地です。パレスチナ問題は様々な事情が複雑に錯綜しているので、ここで踏み込んだ言及はしませんが、国と国を分け、民族を対立させている最大の要因が宗教であることは間違いありません。
世界三大宗教はキリスト教、イスラム教、仏教を指します。信者数で言うと、キリスト教徒が約20億人、イスラム教徒が約13億人、仏教徒が約3億6千万人と推定されています。ユダヤ教を信仰する民は、世界中で推定1400万人。(2013年現在)
日本人の多くは信仰を持ってはいないし、神を本気で信じているアメリカ人も少なくなって来ました。でも、クリスマスやお葬式等の表面的なイベントだけでなく、現代人のものの見方や価値観の根底には紛れようもなく宗教が横たわっています。そして、この宗教的な世界観が民族間の対立を生み、場合によっては戦争を引き起こす。
では、ここから人間同士の対立を生み出す「宗教」というシステム(情報)を解体して行きたいと思います。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が、その信仰の根源的基盤としている「聖書」。一般的に「聖書(バイブル)」といえば、神への信仰について書かれたキリスト教の聖典というイメージがあります。しかし、そもそも、この「聖書」という書物、いったい誰が何のために書いたのでしょう?
★「創世記」→★「最初の預言者、アブラハム」→★「モーセにまつわる神話」→★「モーセ以降の旧約聖書」→★「聖書とは何か?」→★「後継者としての預言者たち」→★「現代社会における『パレスチナ問題』」-----という流れで、順を追って考えて行きたいと思います。
★創世記
まず、創世記(旧約聖書・冒頭)に登場する有名な「ノアの方舟(大洪水)」の物語ですが、実は旧約聖書よりも前に成立していた「ギルガメシュ叙事詩」が原型になっているという見方が現在、有力になっています。
歴史の教科書で有名なチグリスとユーフラテス川に挟まれた肥沃な大地メソポタミア(現在のイラク・クウェート)。この南部に世界最古の都市文明・シュメールがありました。このシュメール王朝時代の文献、旧約聖書よりも古い資料である「ギルガメシュ叙事詩」を記した最初の断片が1786年、フランス革命の3年前に、あるフランス人により発見されました。以降、この「ギルガメシュ叙事詩」の書かれた粘土板の発見と解読は徐々に進んで行くのですが、この「ギルガメシュ叙事詩」の中に「ノアの方舟(大洪水)」の物語と細部まで、そっくりそのままの記述が存在していたのです。
旧約聖書の中でも、特に解釈の分かれる創世記。この創世記が、どんな流れになっているか、というと、
■天地創造(神が登場して最初の七日間)→■アダムとイヴ(最初の人間)→■カインとアベル(アダムとイヴの息子たち)→「ノアの方舟」(大洪水神話)→バベルの塔(言語の分断)、そして、そこから最初の預言者・アブラハムの生涯と、その子孫の物語へと進んで行きます。
ちなみに「アブラハム」はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通始祖であることから、この三つの宗教を総称して「アブラハムの宗教」と呼ぶこともあります。
まず、天地創造の物語ですが、これは旧約聖書成立以前から語り継がれてきた「言葉の起源」についての神話が脚色されたものと考えることができます。なぜなら、聖書の作者たちは、この世界の始まりが言葉だったことを知っていたからです。それは聖書(ヨハネによる福音書)にもはっきりと書いてあります。
はじめに言葉ありき、
言葉は神とともにありき、
言葉は神であった。
と。
神がいなくても言葉があれば、この世界は創造出来ます。
「この世界は神が七日間で創った」と考えるか「自然界に言葉(情報)が生まれ、世界が細分化(闇/光/空/地/海/獣/人……etc)されて行った」と考えるか、どちらの方が現実的に筋の通る天地創造の説明となるかは自明と思います。神が精神の中に存在する以上、神ですら情報(言葉)であることは間違いありません。つまり、神が言葉を作ったのではなく、言葉が神を作った、ということです。
そして、この天地創造から連なる「アダムとイヴ」「カインとアベル」までの流れは、大なり小なり、世界中の起源神話(最初の男と女から子孫が増え広がって行く話)と共通しています。ギリシア神話から日本の古代神話(イザナキとイザナミによる天地開闢)に至るまで構造は同じ。なので、だいたいどこの国でも似たり寄ったりの「世界(人間)の始まりの物語」と考えれば、特に不思議な所はない。
続く「ギルガメシュ叙事詩」(「ノアの方舟」の元ネタ)に書かれた大洪水が何を意味するのかについては、後述する『古代文明の原理』に譲(ゆず)ります。
あくまで仮説ですが、旧約聖書の成り立ちを推測すると、以下のように考えることができると思うのです。
「ギルガメシュ叙事詩」に描かれているシュメール王朝に暮らしていたシュメール人(「混ざり合わされた者」の意を持つ)が、そもそものユダヤ人の先祖。
このシュメールを、紀元前1700年頃、バビロニア(バベル/バビロン。メソポタミア地方の古代都市)が征服。この時、バビロニアに捕らわれたユダヤ人たちは「ギルガメシュ叙事詩」を知っていた。
バビロニア滅亡後、カナン(約束の地=パレスチナ)に移り住んだユダヤ人たちが、古代神話をベースに、神を主人公(第三者視点の話者)に据えた天地創造の物語を考案。その後「ギルガメシュ叙事詩」に描かれた(実際に起きた大事件である)大洪水のストーリーを加え、「ノア」という名前のキャラクターを、その「大洪水事件」の主人公に設定、彼に「神に選ばれし者」というコンセプトを与えた。
続くエピソードにある「バベルの塔」。このお話は、ウィキペディアから要約を引くと、
もともと人々は同じ一つの言葉を話していた。人々は東に移住し、シンアル(後述する「ニムロデ」の王国)の野に集まった。彼らは煉瓦とアスファルトを発明した。
神はノアの息子たちに世界の各地を与え、そこに住むよう命じていた。しかし人々は、これら新技術を用いて天まで届く塔をつくり、人間が各地に散るのを免れようと考えた。エホバは降臨してこの塔を見「人間は言葉が同じなため、このようなことを始めた。人々の言語を乱し、通じない違う言葉を話させるようにしよう」と言った。このため、人間たちは混乱し、塔の建設をやめ、世界各地へ散らばっていった。
というエピソードです。ちなみに「バベル」とは、ヘブライ語で「混乱」を意味します。
現在、この「バベルの塔」は、バビロンにあったジックラトではないかと考えられています。ジックラトとは「高い所」を意味する神殿。この、ジックラトが現れるのが紀元前3000年頃のシュメールにおいてですから、創世記のそもそもの起源である「ギルガメシュ叙事詩」に記述があったとしてもおかしくはない。そして、当時、その土地=多神教の都市・シュメールで使われていた単一言語=「孤立した言語」と考えられている「シュメール語」が、神の怒りとしか思えないほどの大洪水によって分断され、多言語化した。そのエピソードを描いたのが「バベルの塔」なのだと思います。
「ユダヤ戦記」の著者であるヨセフスによる「ユダヤ古代誌」には以下のような記述があります。
ニムロデ(「創世記」におけるノアの子孫)は、もし神が再び地を浸水させることを望むなら、神に復讐してやると威嚇した。水が達しないような高い塔を建てて、彼らの父祖たちが滅ぼされたことに対する復讐をするというのである。人々は、神に服するのは奴隷になることだと考えて、ニムロデのこの勧告に熱心に従った。そこで彼らは塔の建設に着手した。……そして、塔は予想よりもはるかに早く建った。
つまり「バベルの塔」が「ギルガメシュ叙事詩」に描かれた(実際に起きた)大洪水の後の、ジックラト(水が達しないような高い塔)に関するエピソードと考えれば、つじつまは合うわけです。聖書研究者の多くによれば(聖書にある年代をそのまま計算すると)「ノアの大洪水」が起こったのは、紀元前3000年頃と推定されています。ジックラトの建設がはじまったのも紀元前3000年頃。「バベルの塔」は「ノアの大洪水」後のエピソードとして語られているわけですから、タイミング的にも史実に符号します。
★最初の預言者、アブラハム
そして、この「バベルの塔」に続く物語の主人公・アブラハム。
彼は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を信じる聖典の民の始祖であり「ノアの洪水」後、神による人類救済の出発点として選ばれ、祝福された最初の預言者。つまり、神という創造主と人間という生身の存在をつなぐ(コネクトする)人物です。
厳密に言えば、聖書においては全人類の共通始祖がアダム、イスラエルの民の共通始祖がアブラハム。ここで言うイスラエルとは血縁集団ではなく、神からミッションを授かった民、の意味。そして、神からはじめてミッションを与えられた人間がアブラハムです。
ここで行われた「神と人間の約束」が、現在のユダヤ教、キリスト教、イスラム教の基本であり、本質的には、この約束が現代世界を動かしているのです。様々な思惑が複雑に錯綜(さくそう)する中東問題も、カトリックとプロテスタントの対立も、バチカンが存在することの意味/理由/根拠さえも、この約束がゼロ・ポイントにおける起源になっています。つまり、現代社会の宗教の絡む問題の大半は、大元を辿れば、この時の約束が原因なのです。
では、この時の「神(創造主)と人間(アブラハム)の約束」とは、どんな約束だったのかというと……。
あなたは、
あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
あなたを祝福し、
あなたの名を大いなるものとしよう。
あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
あなたをのろう者をわたしはのろう。
地上の全ての民族は、あなたによって祝福される。
とか、
さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、
永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
というものです。
一般に、この、神と最初の約束を果たした「アブラハム」という人物は、伝説と歴史の間に生きる神話的人物と考えられていますが、アブラハムさんは、純粋にリアルな歴史上の人間だったと私は思います。
そして、このアブラハムさんが、それまで住んでいた移住先の先住民(恐らくは、海の民=ペリシテ人)を追い出し、その地における自分の支配権を確立するために「創世記」という神話を作ったと考えると、すべてのつじつまは合います。
恐らく、アブラハムさんは、バビロニア崩壊後、シュメールの首都・ウルから出発してカナンに辿り着いた民(ユダヤ人)たちのチーム・リーダー。そして、彼と彼のチームによって、先住民が信仰を捧げていた多神教に対抗する(自身たちを正当化する)ためのコンセプトとして生まれたのが「唯一絶対神=GOD」なのではないでしょうか?
そして、自分たちがキャラクター設定を行った「神」という名の創造主と自分が契約を交わすというエピソードを作ることによって、自分たちの民の存在を正当化(神格化)した。
そして、旧約聖書では、その、アブラハムたちの移住のエピソードの後、アブラハムの家系へと繋がる物語へと入って行く。このアブラハムたちが入植した土地が、現在のパレスチナ(カナン/シオン/エルサレム)。そこまでが「創世記」と呼ばれる文書です。
★モーセにまつわる神話
続く「出エジプト記」はこんなお話です。(参考文献:雨宮彗著『図解雑学・旧約聖書』)
■奴隷(レビ族=イスラエルの氏族)の子・モーセが、エジプト人に虐待されている同胞を見て怒りにかられ、エジプト人を殺し、砂に埋める。→■ファラオの追跡を逃れ、エジプトを脱出するモーセ→■シナイ半島(スエズ運河の辺り。現在は高級リゾート地)の山で「神の啓示」を受けるモーセ。神はモーセにミッションを与えます。「同胞(イスラエル人)をエジプトから救出せよ!」→■モーセは民を引き連れてエジプトを脱出。その後、神の導きにより海が割れる奇跡が起こり、モーセたちは三か月かけてシナイ山に再び辿り着く→■三日後、モーセは再び「神の啓示」を受け、有名な「十戒」というルール・ブック(偶像崇拝や殺人、姦淫の禁止等)を神から授かる。民は、このルールに従うと宣言する。→■ところが、この民たちは、結局、このルール・ブックを無視して、モーセとは別の神様を作りだし、結果、モーセ&彼の神を裏切る。→■モーセ、裏切った民3000人を虐殺。→■神の直接の指示により、モーセを仲介者として、神と民は再契約を交わす。→■モーセに率いられた民は、シナイを出るが、ヨルダン川東岸でモーセは死ぬ。この時に、モーセの残した遺言が「申命記」→■最終的にイスラエルの民は「約束の地、乳と蜜の流れる地」であるカナンに辿り着く。
こうした「モーセにまつわる神話」は、以下のように解釈することができます。
そもそも、イスラエルの民の始祖であるアブラハムはシュメールのウルからチグリス・ユーフラテス川沿いに進み、地中海沿岸を下って「カナン」に入植しました。その後、アブラハムの子孫であるヤコブと、その息子、孫たち、総勢70人がエジプトに入植。数百年後、イスラエルの民はエジプトで国に溢れるほど増え広がります。ファラオ(エジプトの王)は、イスラエルの民の増加を食い止めるために、彼らに強制労働を課した。そうしたプロセスを経て、エジプトから「カナン」に出戻ったイスラエルの民のチーム・リーダーがモーセです。
引き連れた膨大な数の民を、モーセが取りまとめるためには、リーダーとしての自分の地位を確立し、憲法(ルール)を統一する必要がある。しかし、当時は司法制度が整っていませんから、そうした統制は神の名によって行うしかない。つまり、モーセが神の名を借りて発布した憲法が「モーセの十戒」だったのだと思います。そして、この時、施行されたモーセの憲法は「姦淫の禁止」を含めて、広く現代社会に至るまで倫理基盤になっています。でも、それは、神によって定められたルールではなく、あくまでモーセという一人の人間が考案したルール。
モーセは常に神の導きによって行動したことになっていますが、後世の指導者(聖書の記述者)たちが民を統制するためには、モーセと彼の憲法を神格化しておくことが必要不可欠だったわけです。
潮の干満で、それまで海岸だったところが干上がり、陸地(通行可能)になることは、それほど珍しいことではなかったと思います。そうしたエピソードを民を取りまとめるために大袈裟に描写したのが、恐らくは、あの有名な「海が割れた」という伝説。実際に聖書の資料によっては「海が割れた」のではなく「海が渇いた土地に変わった」とする記述もあります。また、モーセはシナイの山中において、一人きりで「十戒」の記された石板(ルール・ブック)を神から授かったわけですから、当然、自分で書いてしまう(石に文字を刻んでしまう)ことは可能だったと思います。まだ、筆跡鑑定のなかった時代ですから。ちなみに「モーセの十戒」が書かれたとされている石板=アークは現在に至るまで発見されていません。
★モーセ以降の旧約聖書
さて、この後、モーセの後継者・ヨシュアによって、念願のカナン入植(軍事制圧)を果たしたイスラエルの民。しかし、そこではバアル神(稲妻を主武器とする雷神)をはじめとする異教の神がはびこり、人々の心はしだいにモーセの神から遠ざかります。こうした状況下で立ち上がったのが「志師」(裁く者)と呼ばれる12人のカリスマ指導者たち。しかし、彼らは常備軍を持たなかったため、外敵(鉄の武器で武装した軍隊を持つペリシテ人)と戦うためには志願兵を募らざるを得なかった。そこで、このような国家体制では乗り切れないという現実に直面し、イスラエルに王制が登場します。
このイスラエル王国の、くじ引きで選出された初代の王様がサウル。
この時のイスラエル王国は、現代日本の象徴天皇制とほぼ同じで、最高位は神ですが、実際に統治(政治)を行っていたのは王様です。この王制への移行は、国民の不満の声も大きく、サウルにも苦労が絶えなかったようです。
サウルはペリシテ人との戦に敗れ、自害し、死体は敵のさらしものになってしまいます。次の王様が、サウル軍の旗頭であったダビデ。そう、巨人・ゴリアテ(太い槍を持つペリシテ軍の勇士)を、石ころの一撃で倒した伝説の羊飼いの少年。この、ダビデが周囲の敵を打ち倒し、首都エルサレムを中心とした統一王国の基礎を築きます。
なぜ、首都(聖地)をエルサレムにしたかというと、南北融合を図るダビデにとって、その中間地点にあるエルサレムが何かと都合良かったからです。そして、イスラエルの統一を成し遂げたダビデは、東西南北の土地を、すべて制圧します。
しかし、この、ダビデは人妻と姦通、妊娠させてしまい、その罪によって弱体化。王位継承争いが勃発し、息子たちは次々と死に、やがて、三男が父親であるダビデに反旗を翻して、ダビデは病床の老人になってしまう。そして、このダビデはソロモンに王位を譲ります。
これが、だいたい紀元前1000年頃。日本では弥生時代の始まりに相当します。
ソロモン王(700人の王妃と300人の側室を持つ)は諸外国との外交関係、学術交流を重視し、彼の治世の元、(国民の税金によって)統一王国は広大な版図を築き、繁栄を謳歌するのですが、ソロモン王の死後は、社会格差が拡大、内乱、戦乱の時代が訪れ、王国は南(ユダ王国=老人たちの国)北(イスラエル王国=若者たちの国)に分断、最終的には、パレスチナの統治権を巡って新バビロニアVSエジプトの対立となり、エルサレムの町は焼かれ、多くの民がバビロンに捕囚され、残った者はエジプトに避難するなどして世界中に離散した。その結果「約束の地」からイスラエル人は追われ、ユダヤの王国は滅亡します。
これが、だいたい紀元前500年頃。中国では春秋戦国時代に当たります。
こうした王国の興亡を描いたのが「列王記」。そして、ここから預言者たちの物語へと続き、第2イザヤが、世間に相手にされない預言者の苦悩を「苦難の僕(しもべ)の歌」として書き残したことから、「キリエ・エレイソン=主よ、憐れみたまえ」という詩編が生まれ、話はイエスについての物語である「新約聖書」へと、つながって行きます。
★聖書とは何か?
このように様々な神話や史実の集合体が、最終的に一冊の歴史大河小説として編纂(へんさん)されたのが「旧約聖書」という物語なのだと思います。
ちなみに、旧約聖書の「旧約」とは「モーセが仲介者となって、人間が神と結んだ(古い)契約」を意味し、新約聖書の「新約」とは「イエスが仲介者となって、人間が神と結んだ新しい契約」を意味します。
ユダヤ教では旧約(モーセ五書=トーラ)だけを聖典と見なし、新約のことは認めていません。逆にキリスト教はメインの聖典が新約で、「イエスこそがメシア=救世主である」と考えます。
イスラム教の聖典はコーラン(クルアーン)であり、コーランは旧約聖書の神とほぼ同じ(微妙に違う)「アッラー」の啓示を受けたムハンマドさんが説いた言葉。
聖書(特に、旧約聖書)という書物が、なぜ古代から現代に至るまでミステリアスで怪しい輝きを放ち、信仰者のみならず一般読者の強い興味と関心を惹き続けて来たのか? そして、なぜ、聖書という書物の解釈を巡り宗教的対立と混乱が、はるか古(いにしえ)より現代に至るまで絶えないのか? 人々は果てしなく宗教戦争を続けるのか? それは、元を正して一言で言えば、
「創世記って、本当に神が自分で語った言葉なのか?」
という部分にあります。
信仰者にとっては、聖書はたんに神についての言葉ではなく、「神の言葉」です。神が主人公であると同時に、その著者です。つまり、アブラハムの宗教を信じる者にとって、聖書とは「創造主・神が書いた本」なのです。
真偽はともかく、新約聖書は誰の残した言葉なのかは明記してあります。旧約聖書も、創世記以降は、誰についての、何についての記述なのかは一応、分かります。しかし、創世記だけは、人間の著者がいたとしても、誰が何を目的として残した言葉なのか、2千年以上の長きに渡る歴史の中で、誰も解読/解決することができない「永遠の謎」だったのです。
モーセやイエスやムハンマドをはじめとする、あらゆる聖者や預言者、そして、あらゆる聖職者と教会組織の存在を根源で基礎づけている「神」。では、その「神」とは、そもそも何者なのか?
でも、上記のように考えて行けば、旧約聖書(創世記)という書物の中に、謎や神秘は残りません。神は決して不可知の存在ではない。
こう考えてみて下さい。もし、日本人を絶対君主制の元に統括するのであれば、天皇を神とみなし、その天皇を「神の血族」として位置付けるのが、もっとも手っ取り早い。同様に、イスラエルの民をコントロールするためには、統治者であるアブラハムを「神に祝福された最初の預言者」として神格化する必要がある。
前にも書いたように、そもそも「唯一絶対神=ヤハウェ」の起源は、移民であるシュメール人=ユダヤ人が、先住民が信仰を捧げていた多神教に対抗するために生み出したキャラクターだったのだろうと思います。
「神」としての天皇の系譜が日本神話における天地開闢まで辿れるように、ユダヤの民にとっては、人類(世界)起源は「ヤハウェ(ユダヤの神)」でなければならない。そして、その創造主と契約を結ぶ、というストーリーを編み出すことによって、リーダーであるアブラハムの絶対的地位を確立した。
ポイントは、聖書がリアルタイムで書かれた記録(ルポ)ではない、ということです。為政者(記述者)が後から、いくらでも都合よく史実を脚色することができた。これは、日本の近代史における教科書の改変と同じ構図です。天皇を絶対神と位置付けるためならば、為政者が歴史を書き換えることなど造作もない。
聖書を「神が書いた本」と考えると不可解な点や謎が多く残りますが、時の為政者たちが、イスラエルの民(アブラハムが率いた民の末裔)を教科/コントロールするために書き連ねて行ったテキストと解釈すれば、「神」の存在にも言動にも不思議はありません。天皇は血肉を持った眼に見える存在ですが「創造主・ヤハウェ」は架空のキャラクターだから、原作者が正体をバラさなければ、著作が読み継がれている限り、時を超えて人々の頭と心の中で生き続ける。
言うなれば『聖書』とはトリックの明かされていないミステリー小説。この聖書に関する私の仮説(宗教的情報の解読)が神学的、歴史的に正しいか、否か、ということは問題ではありません。私が解いた、このトリックの種明かしに、あなたが納得できるかどうかの問題です。少なくとも、あなたが納得することができるなら、それ以上、「神」という人類史上最大のトリックについて頭を悩ませる必要はありません。
★後継者としての預言者たち
創世記における最初の預言者であるアブラハム。先にも書きました通り、彼の後継者(サブ・キャラクターとしての預言者)として登場する、モーセを崇めるのがユダヤ教、イエスを崇めるのがキリスト教、ムハンマドを崇めるのがイスラム教。
この三つの宗教に共通しているのは、各々が崇拝するモーセ、イエス、ムハンマドが、みな「私は神から言葉を授かった」と主張していること。つまり自己申告で、自身の言葉が神の言葉である根拠は特にない、ということです。だから、成り立ちとしては、私が「神から啓示を受けた」と主張し、私の言葉をみなさんが信じて下されば、私にも四つ目のアブラハムの宗教を作る(神に祝福された四人目の預言者となる)ことは可能です。
この中でイスラム教が特殊なのは、オリジンとなる「ムハンマドさん」が割と最近の方(6世紀前後)で、職業が商人/軍事指導者/政治家というリアルな存在であること。イスラム教は元々、ムハンマドさんが敵対勢力との軍事抗争(ジハード)を繰り返して勢力を拡大した宗教ですから、原理主義化(原点回帰)してしまうと、戦闘的になるのも半ば必然と言えます。でも、それはイスラム教のみが悪いわけではなく、アブラハムの宗教は根本的に、自分たちの考え方を相手に押し付け、勢力拡大を図る。(未開部族への布教も含めて)こうしたスタンスは、本来の仏教の姿には見られないものです。
なぜなら仏教は、その起源において主従が「教える/教えられる」という関係ですが、アブラハムの宗教は主従が、ギブ&テイクの関係になっているからです。つまり「私たちは、あなたに信仰を捧げ、あなたの教えを守って生きるので、代わりに救済を与えて下さい」という構図です。
このコンセプトは、聖書を作った、そもそものオリジンであるアブラハムさんが、民に忠誠を誓わせるためには当然の教えです。「おれ(=神)は、お前たちを救ってやるから、お前たちはおれを信じ、おれを崇め、おれに従順(盲目的)に従え」ということです。この構図は、どこの王と民の関係でも、どの教祖と信者の関係でも同じです。そして、かつての天皇と日本人の関係も含めて、神のためならば民は、命を捨てて闘います。
★現代社会における「パレスチナ問題」
現在のイスラエルは、日本のように諸々のプロセスを経て、流れの中で形成された国ではなく、ある時「さあ、作りましょう」「ドン!」という形で多民族の複合体として作られた人工国家です。
イスラエルの建国は1948年。第二次世界大戦でナチス・ドイツによる大量虐殺を経験したユダヤ人は、ヨーロッパ各地に離散して暮らすのではなく、自分たちの国を持ちたいと考え、そもそもはユダヤの王国であったパレスチナに国家を設立しました。しかし、当然、そこには先に住んでいた人々(アラブ人)がいたわけで、国連がパレスチナを「ユダヤ人の国」と「元々住んでいたアラブ人の国」に分割。前者である「ユダヤ人の国」が「イスラエル」として建国されました。しかし、周辺のアラブ諸国は、この国連案を認めず、第一次中東戦争が勃発。これに勝利したイスラエルは、その後の戦争で支配権を拡大。第三次中東戦争では、アラブ諸国に対してイスラエルが先制攻撃を仕掛け、わずか6日間で勝利を収めました。
アブラハムの宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)共通の聖地であるパレスチナ内部の土地、エルサレム(カナン=シオン)は、国連が管理する土地と定められていましたが、イスラエルが全面占拠。自国の首都と宣言してしまいました。また、国連の分割案で「アラブ人の国」に指定されていたパレスチナの土地も、すべてイスラエルが占領しました。
イスラエルの占領によって、そこに住んでいたアラブ人たちは難民となって故郷を追われます。以後、難民たちは、そもそも自分たちの土地であったパレスチナの民としての自覚を持つようになり、故郷を奪還するための闘争に立ち上がる。その指導者がアラファト議長でした。
その後、長い抗争が続き、結局「ガザ地区」と呼ばれる場所にパレスチナ自治区が誕生。しかし、今度は、このパレスチナ自治区の中で、イスラエルとの和解を目指す穏健派「ファタハ」と、自爆テロ軍事組織を持つイスラム原理主義グループ「ハマス」が対立、内戦状態になります。
「ハマス」はイスラエルの存在を認めず、武力闘争によるイスラム(アラブ人)国家の樹立を目指します。やがて、「ハマス」はガザ地区に独自の治安部隊を配置、実効支配します。
このようにして、イスラエルと対立していたパレスチナ人は、自治区内部でさらに分裂してしまったわけです。
欧米は「ハマス」を認めず、ガザ地区への支援をストップ、ガザ地区の住民は困窮の度合いを深めて行きます。
一方でイスラエルは当然のことながら穏健派の「ファタハ」を支持、自国への自爆テロを繰り返す「ハマス」を攻撃対象としましたが、ガザ地区内には「ファタハ」と「ハマス」両者が暮らしていたため、あくまで、ガザ地区への攻撃は限定的でした。
ところが、ガザ地区の実効支配が「ハマス」となれば、遠慮なく攻撃できます。これに対抗し「ハマス」がイスラエルへの自爆テロを繰り返す。この自爆テロによって、16歳のユダヤ人少女が死亡した事件がきっかけとなって、イスラエルは「ハマス」の自爆テロを防ぐために、このチャプター冒頭でご紹介した「分離壁」建設へとつながって行くわけです。
以上は池上彰さんの著作『池上彰の「世界が変わる!」』を参考文献としていますが、事情を良く知らないと「イスラム原理主義グループ=狂った悪者集団」というイメージを持ってしまいます。
しかし、彼らの主張にも一理はあるし、彼らの立場になって考えれば、正当性もあります。ただ、何事に付けそうですが、目的と手段は往々にして転倒します。
「民族独立のためのアッラー(ジハード)」だったものが、いつの間にか「敵(イスラエルやアメリカ)への攻撃を正当化するためのアッラー(ジハード)」になってしまったわけです。
これまでに渡って考察して来たように、イスラエルの人々が、元々は自分たちの王国だったと主張するパレスチナも、さらに遡(さかのぼ)って考えれば、元々はシュメール人(ユダヤ人)が先住民を追い出し、不法占拠した土地。
元々は、どこが誰の土地か? という議論に永遠に結論は出ません。
そして、パレスチナ人にはパレスチナ人の宗教(イスラム教)があるし、イスラエル人にはイスラエル人の宗教(ユダヤ教)があります。つまり、こうした問題を根本から解決するためには、互いの宗教の起源である旧約聖書(創世記)」まで立ち返り、「神」というシステム自体を解体してゼロに戻し、対立の原因そのものを消してしまうしか方法はないのです。
*
一言で言えば「神」とは、決して廃れることのない、永遠不滅の人気を誇る、物語の中のキャラクター。
神を巡って、人々が信仰に悩み、対立し、争うことは「ハリー・ポッター」の解釈を巡って宗派を分け、殺し合うことと同じです。そんなのバカバカしいとは思いませんか?
「ハリー・ポッター」が現実の世界に出て来て、魔法を使って人間を救ってくれることは絶対にありません。なぜなら、神は十字架に掛けられたイエス・キリストさえ見捨てたからです。物語の中のキャラクターに依存し、愛や祈りを捧げることはもう止めて、神のいない世界で平和を作る方法を考えるべきではないでしょうか。
ユダヤ教徒もイスラム教徒もキリスト教徒も、そしてカトリックもプロテスタントも、みんな「神」が消えれば、仲直りできるのだから。
*『仏の教え』
キリスト教というのは、そもそも聖書という「本」に立脚している宗教ですから、どう解釈するかどうかは別として、誰でもそこに書いてある文章を読むことは出来ます。でも、仏教は、そもそものはじまりが釈迦という個人で、彼自身は「本」を残すことを望まなかったにも関わらず、その後、いろいろな人が釈迦の言葉を勝手な解釈で書き遺したがゆえに、ものすごくややこしい体系が出来上がってしまい、理解するのが大変に難しい思想になってしまった。
仏教は経典だけで8万4千あると言われていますが、そもそもはブッダ入滅から数百年間、その教えは口承のみで伝えられ、書き記されることはなかった。
なぜ、オリジンである釈迦自身が、自分の考えを文字として残すことを嫌ったかというと、彼が「見た」ものは本質的には言語化することが不可能だから。要するに、言葉によって伝えることが出来ない。それを無理に「本」として残し、誤った解釈が広がることを恐れたのだと思います。そして、語弊を恐れずに言えば、その釈迦が「見た」ものを別の切り口から理論化したのが『THE ANSWER』であり、本書『ハートメイカー』です。釈迦が行ったことも、私が行っていることも「頭の中にある情報の解体」という意味では同じだからです。ただ、釈迦はそれを修行で行い、私は言葉によって言葉を解体している。
どの角度から掘り進んだとしても、人間が極限で辿り着く答え(真理)は同じなのです。真理とは無であり、無とは言葉の消えた世界です。ただ、釈迦の時代には素粒子物理学もポスト構造主義もありませんでしたが、それから数千年後の現代社会は、あまりにも多くの情報が氾濫(はんらん)しているので、思考をゼロに戻すことが難しい。それだけの違いだと思っています。
釈迦の出自は王族で、何不自由ない暮らしをしていた。でも、ある時、市井に出て、生きることに悩み苦しむ人々を目の当たりにして、人間の悩みや苦しみは、一体どこから来るのだろう? と考えに考え、とことん考え続け、ある時「ツコーン」と突き抜け悟りを開いた。では、その時悟ったこととは何なのか?
釈迦は「煩悩(ぼんのう)があれば苦があり、煩悩がなければ苦がない、煩悩が生ずれば苦が生じ、煩悩が滅すれば苦が滅す」という「縁起の法」=因果論を説いたとされています。
仏教では人間の苦しみの根源は、無数(俗に百八)の煩悩(クレーシャ=汚すもの)を抱えて生きていることにあると考え、この煩悩を把握・克服することによって解脱・涅槃(ねはん)への道が開けるとされています。
「解脱」「涅槃」という言葉を聞くと、すさまじく大仰で高次元の境地をイメージしてしまいますが、お釈迦様が本当に伝えたかったのは、ごくシンプルなことだと思うのです。
それは、つまりこういうことです。
人間の抱える悩みで動物は悩まない。では、人間と動物の違いは何かと言えば「言葉を持っているか、否か」という違いだけです。動物も飢えます。動物も死にます。でも、動物は飢えることや死ぬことで悩んだり、絶望したりしない。そんなことは、いちいち考えない(考えることができない)。生まれ、子どもを作り、死んでいく。それだけの存在。だから言葉も意図も持たず、「我」のない、ただそれだけの自然存在=「空」としてあれば、人間も悩んだり、苦しんだりしない。
それがすなわち、仏の教えの根幹にある思想なのだと思います。
釈迦は「悟る」ことを目的として修行をはじめたわけではないのです。そもそもは、困っている人、苦しんでいる人を何とか助けてあげたい、救いたい、という人間的な優しさが最初のモチベーションとしてあったのだと思います。じゃあ、どうして人間は苦しんでしまうのだろう? と哲学的に考察した結果「飢えたくない」「死にたくない」「愛する人と離れたくない」「苦しみたくない」と考えてしまうから苦しくなるのだ! と気付いた。だから「~したくない」「~したい」という意図を持たなければ人は苦しまないのではないかと考え、だったら、その意思を持つ主体である自我そのものを消して、人間が「我の無い心」「空っぽの実体」となれば原因そのものが消滅し、結果として欲も消滅するから、苦しみから抜け出すことが出来る、と考えた。その因果や自我から解放された状態を「悟り」「解脱」と呼んだわけです。
仏教には様々な難しい概念がありますが、すべて後世の仏教徒が言葉にならないものを無理やり理論化した体系であって、お釈迦様自身がそんなにややこしいことを考えていたわけではないのです。
一般的な科学者タイプの人間は「困っている」→「どうしたら解決出来るか?」と、上向きのベクトルで発展的に考えます。でもアインシュタインや釈迦等の哲学者タイプの人間は「困っている」→「なぜ、どうしてそうなるのだろう?」と下向きのベクトルで、そもそもの原因を考える。だから、それまでの視点を180度反転させるような画期的な発見に至るわけですが、発端となる思考のベクトルが逆なので、一般的なものの見方、考え方をする人には直観的にその思想を把握することが難しい。
お釈迦様の説いていることは決して超人的な思想ではなく、発想の原理が分かれば、しごくまっとうで当たり前の教えです。
釈迦は「極論に走らずに中道を歩め」と人々に教え諭したとも伝えられています。
例えば仏教には「不殺生戒(ふせっしょうかい)」という戒律(ルール)があります。「生き物を殺してはいけない」という教えです。こうした言葉を額面通りに極端な形で受け止めると「菜食主義を通したとしても、植物だって同じ生命ではないのか?」とか「自分を刺すスズメバチすら殺してはいけないのか?」とか「襲ってくる暴漢に対しても、武力で抵抗してはいけないのか?」と悩むことになります。そんな時も、動物をお手本にすれば良いのです。動物は無益な殺生はしません。でも、自分が生きて行くために必要なものは殺して食べるし、身を守るためなら牙をむいて闘います。動物はそうしたジャッジをすることにいちいち悩みません。動物のように不自然な意図を持たずに、人間もナチュラルな存在としてあれば良いのです。
性欲、食欲、睡眠欲など生物として持っていて当たり前の欲は「煩悩(ぼんのう)」ではありません。「煩悩」とは無駄な欲のことです。
心の平穏を手に入れ、人生の苦しみから抜け出すために、必ずしも出家して修行しなければ無駄な欲が消えないわけではないと思います。
私も10年前『THE ANSWER』を書いていたころは、自我全開で承認欲求がとても強かった。「オレの才能を世間に認めて欲しい! 誰かに『すごい』って言われたい! ノーベル賞を100個くれ!」と死ぬほど願い、もがき苦しんでいました。だから、私は座禅を組んだことは一度もないけれど、欲が消えれば楽になる感じは、とてもよく分かります。
断食も女断ちも禁煙も、やろうと思えば誰でも出来る。意思の力では断ち切ることが不可能な、人間が解脱出来ない一番強いカルマ=業は「おれの話を聞いてくれ」「おれの価値を認めてくれ」「おれが困っている」「おれが大変だ」「伝えたい」「分かってくれない」「おれが悟れない」「おれが悟りたい」という自己愛=我執だから。
妄執(もうしゅう)を抜け出すと言う意味での「悟り」「解脱」というものは、たぶん、自分でもがいてもがいて現実と闘って、何度も他人に頭を下げて、恥をかいて嘲笑されて、そういうリアルな葛藤を極限で突き抜けた向こう側で手に入るものだから。
釈迦は「只管打坐(しかんたざ)」、ただ座禅を組むことによってのみ、自己の内面に眼を向け、瞑想することによってのみ悟ったわけではありません。菩提樹(ぼだいじゅ)の下に至るまでの実社会における七転八倒、試行錯誤があったからこそ最終的に無心/無我の境地を得て、世界の真理を見極めることが出来た。
いつもわたしは言っているね。この世のあらゆる生きものはみんな深いきずなでむすばれているのだと……。人間だけでなく、犬も馬も牛もトラも魚も、そして虫も、それから草も木も……。いのちのみなもとはつながっているのだ。みんな兄弟で平等だ。おぼえておきなさい。
手塚治虫・作『ブッダ』(潮出版社)
あなたが海で死んで、その死体を魚が食べ、その魚を漁師が食べれば、あなたの身体(遺伝子)は漁師の中に入る。その漁師が野糞して、その糞をミミズが食べ、そのミミズを食べたネズミを食べたキツネを狩人が食べれば、漁師は狩人の身体の一部になる。そして、その狩人が土の上で死ねば、狩人は地球の一部となり、その地球がやがて粉々に砕けて無くなれば、あなたは宇宙の一部になる。すべてはつながり連環=「輪廻(りんね)」しているのです。ともに互いを支え合いながら、生まれ変わりながら万物は流転しています。
釈迦が最後に辿り着いた「涅槃(ねはん)」とは恐らく、不自然な意図を排し、曇りのない眼で人間を含むものとしての自然の営みを見つめ、理解し、受け入れる心。そして、仏の教えとは、そうしたピュアで、白く、丸い心を持つためのテクニック・ガイドなのだと思います。
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【発行】2015年3月11日
【総ページ数】221ページ
【版元】青山ライフ出版
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