9-1:霊から授かったマニュアル
*『イントロダクション』
すべての原稿を書き終えた後、私に最後の「閃き」が訪れました。ようやくすべてのカラクリが分かった。
これまでに書いて来たことも、我ながら、まるで別の惑星に住む異星人が書いた文章のように変だ、妙だ、という感覚(実感)は持っていたのですが、これから書くことは、さらに読者を困惑させると思う。
最後になってようやく分かったこと。それは、私が「覚醒して悟りを開いたニュータイプ」ではなく、単なる「コネクター」、つまり霊界と現生をつなぐパイプであり、霊界からのメッセージを伝えるメッセンジャーだった、ということです。場合によっては、人はそうした存在を「ユタ」「イタコ」「シャーマン」「ミディアム」「霊媒師」「預言者」と呼ぶでしょう。でも、呼び方なんて、何だっていいのです。私は、これまで大いなる勘違いをしていました。『ハートメイカー』は、「見えてしまったもの」について私が書いた本ではなく、「見せられ、書かされた」本だったのです。この本の中で読者に向けて「あなたは・・・」と語り掛けているのは、著者である私(鈴木剛介)ではなく、あちら側の世界にいる何者かです。そして、その「何者か」は、かなり大きな霊的存在です。
奇異に聞こえることは重々承知しています。ただ、これまで書いて来たことがすべて「理屈で考えたこと」ではなく「見えてしまったこと」「分かってしまったこと」だったように、最後の種明かし、最後の「答え」もまた、ただ「知らされた」「告げられた」のです。そして、そう考えれば、奥多摩以降に私に起こった不思議な出来事、不可解な現象の連続は最初から最後まで完璧に筋が通る。
これまで、自分がふと抱いた疑念には、すべて「答え」が与えられて来ました。でも「霊界」というものが、もし、本当に存在するのなら、その仕組みだけがどうしても分からなかった。ラスト・チャプターでスピリチュアルについて言及しながらも、「これは完全な答えじゃない」「これでは全部説明したことにならない」という、ある種のフラストレーションを抱えていました。最後に与えられたのが、その「答え」です。
今、まさに書いているこの文章も含めて、私が意図して、考えて書いた文章というのは、この本の中にほぼ一行も存在しません。ある意味では、自動書記状態で書いています。もちろん、文章の流れや、構成をまとめるための推敲は死ぬほど繰り返しているけれど(一応、元作家だから)、その推敲作業も考えてやっているわけではなく、直感や閃きで行っています。(これは作家的な本能なのかも知れないけれど、文章がちゃんと正しい形にまとまった時は「正しい形にまとまった」ということが分かるのです)だから、とても孤独で、苦しく、しんどい作業ではありましたが、私がこの『ハートメイカー』シリーズを書く上で、唯一、意識して行っていた努力は「出来るだけ考えない」ということだけでした。
「自動書記」と表現してしまうと、何かに憑依されてトランス状態に陥った人の手が勝手に動き出す、というイメージをされてしまいそうですが、何というか、最後の最後になって「種明かし」されたら「あら、おれが自分で書いていたわけじゃなかったのね・・・」という感じです。だから今となっては、誰にどう、この本を酷評されようが、批判されようが痛くもかゆくもない。なぜなら、これは、おれが書いた本じゃないから(笑)。以下の文章も、そうした前提を踏まえて読んで頂けると嬉しいです。まあ、ある意味では、これがこの本の「オチ」「トリックの種明かし」。
こういう表現はすごくしたくないのだけど、以下に書くことは、鈴木剛介の意見ではなく、「かなり大きめの霊的存在が語り掛けていること」として受け止めて下さい。
*『霊的なこと、宗教的なこと』
現代社会に生きる我々は「自然/超自然(ナチュラル/スーパー・ナチュラル)」、もしくは「この世/あの世」と区別して考えています。でも「科学至上主義」が世界を席巻するまでは、この世界はもっと混沌としており、人も霊も神々も一緒くたになって共存していたのです。そう、宮崎駿監督が描いた『千と千尋の神隠し』や『もののけ姫』の世界観と同じように。
分かってしまったこととしか言いようがないのですが、霊的な存在は「全知全能の唯一神GOD」ではないから、自然現象をコントロールすることは出来ない。祈りを捧げたからと言って、雨を降らせることは出来ないし、死者をよみがえらせることも出来ないし、洪水を堰き止めることも出来ない。彼ら(彼女ら)は、ただ、メッセージを伝えるだけです。もしくは、人をどこかに導いたり、誰かと誰かを引き寄せたり、生身の人間のバックアップ的存在として守護し、慰め、癒す。彼らの力を借りれば、ヒーリング能力や予知能力、彼らの世界を垣間見る力を得ることも出来る。逆に言えば「良い霊」と「悪い霊」、「聖的な存在」と「邪悪な存在」、「祝福された者」と「呪われた者」もいるのでしょう。眼には見えない、何か大きな存在に守護され、祝福されることもある一方で、「悪霊に取りつかれる」という現象も、実際に起こり得る。だから場合によっては「除霊」という行為(儀式)は必要です。ただ、そうしたことを行う「力」を本当に持った人間は、ごくごく限られています。金を取る霊能者は信用しない方がいい。もともとそういう力を持っていたとしても、その力を金のために使うようになったら、その力は失われる。なぜなら、超自然的な力、霊能、サイキックは自分の意思でどうこう出来る能力ではなく「授けられた力」だからです。それは、人を助けるために、人を救うために授けられたギフト。その力自体が目的化したら、力は「自分のための商売道具」になってしまう。
「手相見」「顔相見」「占星術」「タロット」等はある種のロジック(古代の理論/科学)だから、その知識でいくら金を稼ごうが悪いことではありません。それは例えば、プログラマーや料理人と同じ、専門技術だから、技術を金で売ること自体には何の問題もない。
ただ、例えば、読経やお祓い、ミサなど宗教的な儀式(スタイルとしての技術)に高額を支払う必要はありません。戒名の料金が100円でも100万円でも、効果はまったく変わらないし、教祖様に捧げ、貢ぐ金額がいくらであれ、今生で得られる利益にも、来生の幸福にも、まったく影響はありません。金額の多寡と、宗教的、霊的な力は絶対に比例しないし、関係しない。生活の糧として、そうした力を使わざるを得ない場合もあるだろうけど、霊や宗教で金を儲けているヤツがいたら、そいつは間違いなく欲深い、悪者です。なぜなら「本物(リアルディール)」は、金のためにそうした「力」を使ったら、「力」が失われることを、ちゃんと知っているからです。「霊」の反対語は「金」、「霊界」の対面にあるのが「経済界」です。
とは言え、先祖はちゃんと供養した方がいいです。冠婚葬祭において、宗教的なスタイル(仏式、キリスト教、神道など)は無意味だけど、主人公となる人と親しい人たちが集まって、祝うべきことを祝ったり、死者をあの世に送り出す「集い」はやった方がいい。墓に参るか、参らないかはどっちでもいいけど、気持ちの上で、先祖を敬い、感謝を捧げ、定期的に死者に意識を向けて、きちんとその時の思いを伝えることは必要です。あなたが手を合わせる、その物理的対象の上に、先祖の魂はちゃんと存在している。スタイル、形式なんて、どうだっていいのです。大切なのは、素直な気持ちで先祖に思いを届けること。そして、親しい人が亡くなったら、涙で引き止めるのではなく、「良かったね、これで楽になるね」という明るい気持ちで送り出してあげましょう。その方が、死者もすっきり肉体の呪縛を解き、俗世を離れて昇天して行くことが出来ます。死者がこの世に未練を残すと、その思いは怨念となって、よくない働きをする。フツーの人の、常識の範囲内での肉体の死を悲しむ必要はまったくありません。例え犯罪者でも魂が綺麗な人はたくさんいる。逆に、例え善人面をしていたとしも、邪悪な者の魂は「正しい力」の強い人の手を借りて、きちんと成仏(浄化)させる必要がある。不慮の死を遂げた人の魂も、きちんと成仏させて(親しい人間が優しく慰めて)あげましょう。
「眼には見えないもの、手で触れることができないもの」をないがしろにしない方がいい。
「超自然的な存在」を「霊」「神」という言葉で表現してしまうと、どうしても、おどろおどろしく、いかわがしいイメージが付きまとってしまいますが、存在の種類(ジャンル)としては「眼に見えないタイプの人間」と考えた方がいいかも知れない。肌が黒い人間も、肌の白い人間もいるように、眼に見える人間も、眼に見えない人間もいるのです。そして、生身の人間にもキャラクターがあるように、眼に見えない人々にも、各々、キャラクターがある。生身の人間に「100%の善人」も「100%の悪人」もいないように、眼に見えない世界においても「絶対善」や「絶対悪」は存在しない。彼ら(彼女ら)は、「眼には見えない」「肉体を持っていない」というだけで、「意識体」としては、人間と同じ性質を有した存在と受け止めた方がいいと思います。
例え悪いことが起こっても、霊に依存し、何でもかんでも霊のせいにせず、「善い霊」も「悪い霊」も、自分と対等なパートナーと考えるべきです。
生身の人間と生身の人間の絆をつなぎ、濃く、深い人間関係を形成しているのは、物理的な血縁ではなく、「霊的なネットワーク」です。だから、血縁というのは、あまり、本質的でも重要でもない。もし、「この人とは確かに縁がある」「赤い糸で結ばれている」と感じる人がいたら、その人間関係は大事にした方がいい。また、もし自分の身近にいる動物(ペット)、さらに言うならば植物、物、機械(存在と呼び得るものすべて)と、心と心がつながる感じ、深い絆を感じるなら、それもまた「霊的なネットワーク」です。そして、「どうにも肌が合わない」「理由はないのだけど好きになれない」という人がいたら、あまり関わらない方がいい。「霊的なネットワーク」は、大まかに言うと、自分を中心点として「近い存在」「普通の存在」「遠い存在」くらいの三重の円(サークル)で、そのサークルを一つのユニット(一単位)として、インターネットのように、個々のシステム(ファクター)が相互リンクし、無限のネットワークを形成している。
その霊的なネットワークの中で、誰がどの辺りのサークルに属しているか(近いか、遠いのか)、自分の人間関係の中で(夫婦、親子、家族も含めて)、誰と誰と誰との「縁」が強いか(引き寄せられているか)、それは見極めた方がいい。そうすれば人間関係はスムースに、円滑に流れます。逆に、例え相手がどれほど社会的に偉い相手、人格的に優れていると思う相手でも、霊的に「縁」のない人と無理やり縁を結ぼう(人間関係をつなごう、コネクトしよう)とすると、あまり良くないことが起こる、嫌な気持ちになる、ストレスが増えると思います。ちなみに、自分が正真正銘の危機に陥った時、助けてくれる人、物理的(経済的)に手を差し伸べてはくれなくても、自分を否定しなかった人、受容してくれた人が「縁の強い人」です。もちろん、その相手との縁に自信が持てないこと、信用が揺らぐこともあるだろうけど、その縁を切ってしまってはダメです。切れてしまうことはあるだろうけど、自分から切ってはいけない。誰にだって出来ることと出来ないことがあります。どんなに親しい間柄でも、相手に出来ないことまで求めてはいけない。
「血縁」なんて、どうだっていいのです。「仲間」でいられるかどうかが問題なのです。
そして、日々の暮らしの中でも、良い日と悪い日、物事がうまく流れる時(ターム)と流れない時期はあります。それは霊的な、というよりも自然界の「気」の流れのようなもの(フロー)だから、無理に抗ってどうこうしようとはせずに、良くても悪くても受け入れてしまった方がいい。気の流れの悪い日は「ああ、もう今日はダメだな。仕方ないや」と思って割り切ってしまい、気の流れのいい日は、何も考えず、気楽に楽しく過ごせばいい。調子のいい時も、調子に乗って、無理やり何かを動かそうとはせず、自分の気の進まないこと、楽しくないことは、やらない方がいいです。理性の力や経済的、物理的な力(パワー)で、無理やり何かを動かそうとすると、一時的な得はあっても、必ず、最終的には悪い結果が待っています。
受験や恋愛の成就を書いた絵馬にも、おみくじやお守りにも、お賽銭を投げ入れる行為にも、ご利益は宿りませんし、何の力も効果もありません。それは、大昔の儀式が単に形骸化した単なる商品であり、金を出せばどこででも手に入るような物には、眼に見えない力は宿らない。それで自分の気持ちが落ち着くのならば、無意味なものに金を使うことを否定はしませんが、個人の利益や欲得のために神の力にすがろうとすると、悪い霊を呼び寄せます。また、きちんと感謝の気持ちを持った上で、自分が生きて行くために他の生命を殺生することには何の罪もありませんが、利益や欲得のために殺生をすれば、その行いや気持ちもまた、悪い気を呼び込み(悪い気の流れを作り)ます。
ブランドや知名度を持つ、ほとんどの神社やお寺、教会は単に形式的な存在で、特にその場所(地)に何かが宿っているわけではないから、敬う必要はありません。自分の先祖も含めて、何かの思いが祀られ、供養されている場所(ポイント)だけ、心を込めてリスペクトすればいい。由緒のある、歴史の長い場所には、多くの人の念や思いが宿っているので、そうした場所も大切にする必要があります。逆に、自分とは縁もゆかりない場所で、形式的にお清めやお賽銭をしたり、祈りを捧げても意味はない。また「神話」や「宗教的逸話」は、「1」の話が「100万」くらいに「盛られた」エピソードと考えた方がいい。人間には、手をかざしたり、手を当てたりすることによって「気」を与えるヒーリング能力はあるけれど、死者を(肉体的に)よみがえらせたり、水をワインに変えたり、海を真っ二つに割ったりする力はありません。死者の魂を呼び、話を聞くことは出来るけど。
*『男と女』
もしも、容姿や特技や学歴に関係なく女性に好かれたいのならば、ひたすら相手を受容することです。打算やブランドを取り払えば、女性は、自分の言葉に真剣に耳を傾け、自分を理解し、受け入れてくれる男を好きになります。もし、あなたが彼女をベッドに誘うためのテクニックとしてではなく、本心から彼女を受容して(恋してではなく愛して)あげることが出来れば、そうして結ばれた二人はきっと上手く行く。幸せになることが出来る。
優しい愛より、激しい愛の方が楽しいです、一時の激情で駆け落ちするのも心中するのも、不倫相手の子どもを出産してしまうのも、人生のドラマでありロマンではありますが、動物的な繁殖欲求のみに従って行動すると、必ず後悔します。なぜなら、繁殖欲求(恋)は、繁殖したらそこで終りだから。
繁殖欲求で恋に落ちた女性は、愛したら愛した分だけ、その量が、憎しみに反転します。恋に溺れた女性に求愛されたら、愛された男は、愛された分だけ、後で憎まれると思った方がいい。女性は、自分から振った男に対してはマシンのようにドライになれますが、自分が深い愛を抱いた男に裏切られたり、プライドを傷付けられたり、自分が振られたりしたら、彼女の愛は怨念に転化されます。駆け落ちするのは個人の勝手です。でも、駆け落ちした恋は、100%続きません。不倫はとても楽しいだろうけど、不倫相手と結婚したら、その愛も100%続かない。一時的には盛り上がるだろうけど、後になって、自分を一番分かってくれていたあの人が、必ず恋しくなります。「悪い」と分かっていることはやらない方がいい。
色恋の情の流れは、単なる繁殖欲求だから身を委ねてはいけない。「恋」か「愛」かの見極めが肝心です。
人間の身体には小便や大便の他にも、性的な物質が蓄積されて行きます。女性は「生理」という形でそうした性的物質を自動的に排出出来ますが、男性は自分で意識しないと排出できません。必ずしも、その排出先が女性の膣内である必要はありませんが、溜まったものはきちんと排出しないと便秘と同じように病気になります。性的な欲求は自然の摂理です。性欲や、男性の自慰行為を否定的な眼で嫌悪するのは止めましょう。もっとも、適切な性欲の解消方法はセックス(交尾)ですが、性的な物質が体内に溜まるたびにセックス(繁殖)をしていたら、子どもが増えすぎてしまい、生態系のバランスを崩します。人間は、言語を有したことにより、本能が理性に抑圧され、発情期を失いました。本能を否定するのは悪い考え方ですが、性欲は自分の意志で、きちんとコントロールしましょう。理性の強い(知的傾向が強い)人間の本能が抑圧されて、性欲の傾向が歪むのは仕方のないことでもあります。カボチャの上にレンガを載せたら、カボチャは「ぐちゃっ」と潰れます。精神的なレンガを抱えない肉体労働者の性欲は健康的ですが、知的生産性の高い職種の人間は変態的性癖を持ちやすい。性欲が歪むこと自体は、ある程度仕方ないとあきらめて、「変態」の方も社会的に問題のない範囲ならば、悩んだり、自分を責めず、おおらかに、肯定的に自分を慰めましょう。
人間は、公衆の面前でおおらかにセックスをする動物の姿を見て苦笑しますが、人目をはばかって行う人間のセックスの方が、よほど自然に反した、歪んだ性行為です。もし、路上で惚れあった者同士が公衆の面前でも人目を気にせず(避妊した上で)おおらかにセックスをすることが出来るようになれば、社会はもっと健全になります。そして、人間がみんな裸で暮らしていれば、レイプも痴漢も不倫の泥沼も、この世から消えてなくなります。
「メスを力付くで制圧し、子種を植え付け、繁殖したい」というのは、オスが脳の根底で持つ、普遍的な本能です。そうした本能が「レイプ」という形で表出してしまうのは、それだけ本能が抑圧され、歪んでいるからです。「レイプ」という犯罪を犯した人間、もしくは犯しそうな人間に対しては、性欲を去勢し、罰し、常識の枠を強制するより、抑圧され、歪んでしまった性欲を解放してあげた方が「まっとうな社会人」に戻りやすくなります。
*『良いこと、悪いこと』
「神はいるの? いないの?」「安楽死は○それとも×?」「子どもを褒めて育てるのは良いこと? 悪いこと?」という二者択一を迫る形で、人は極論(黒か白か)に走りがちですが、「絶対にいい」とか「絶対に悪い」ということはないのです。極端な話をすれば、ある人間を殺してしまった方が(本人のためにも、他者のためにも)いい場合もある。もちろん、本質的には人に人を裁く権利はありません。ただ、何事も白か黒かではなく、臨機応変に自然の声に耳を傾け、ほどほど、ちょうどいいバランスを判断しましょう。「全知全能の唯一絶対神」はいないけど「霊的なるもの」は存在する。どちらも「神」と言えば「神」です。安楽死がいいか、悪いかはケース・バイ・ケースだし、子どもは褒めたり、叱ったりしながら育てれればいいのです。
西洋医学が「絶対に正しい」わけではないし、西洋医学を全否定することも間違っています。西洋医学には良いところも悪いところもある。何事に付け、同じです。「陰陽」の太極図は、真っ白になることも、真っ黒になることもありません。でも、オセロは「黒」か「白」です。多くの映画、ドラマは「善人」と「悪人」の闘いです。現代社会は、あまりにも二極対立構造に慣れ過ぎてしまっています。
現代社会の根底にある価値観(パラダイム)は相対主義だから、私たちは無意識に「良いこと」「悪いこと」「正しいこと」「間違っていること」の判断基準なんてない。と思いがちですが、「良いこと」「正しいこと」はちゃんとあります。自然の摂理に叶った、生態系の流れに沿ったことが「良いこと」「正しいこと」であり、自然の流れを人間が理性で捻じ曲げたことが「悪いこと」「間違ったこと」です。パンク・ロックやヘヴィ・メタルは一見「ワル」ですが、その歌詞の内容がどうであれ、ロックが刻むビートやウェイブが、心臓の鼓動、動物身体が内在するリズムにシンクロしていれば、それは「良い音楽」です。逆に、癒し感満点の、いかにもなヒーリング・ミュージックでも、それが作為を持って作られた(端的に言えば、金のために作られた)音楽なら、人間に悪い作用をもたらします。音楽のリズムや旋律は頭で作るものではなく、身体感覚で作るものだから「良い音」と「悪い音」は、ちゃんと本能が知っている。ただ、人間が内在しているリズムは個人個人によって違います。仕事であれ、スポーツであれ、自分のリズムを相手に押し付け、強制することは止めた方がいい。
例え、暗い森のざわめきや、荒れる海の波音であれ、自然の発する音はすべからく「良い」。ただ、自然の発する音の意味や予兆には注意を払った方がいい。動物のリズムに合っていない(シンクロしない)、工事現場や高速道路の人工的な爆音は心身に悪い影響を及ぼします。ストレス解消(心のバインドを緩める)のための喫煙は心身に悪影響を及ぼさないけど、ケミカルな物質に依存した喫煙なら止めた方がいい。酒(アルコール)も同じです。楽しい、嬉しいなら吸ったり、飲んだりしていいけど、心身に負荷が掛かる苦しいことならやらない方がいい。
やりたくないことならやらなければいいし、やりたいことならすればいい。そうすれば、ストレス・フリーで楽しく生きて行くことが出来ます。「やるべきことをやらない(義務を果たさない)」のが「悪いこと」ではなく、「理屈をこねくり回す」のが「悪いこと」です。
自分が正しいことをしているのか、間違ったことをしているのか、ということは、誰しも、心の奥底で分かっています。
良いこと、悪いこと、正しいこと、間違っていること、というのは、生まれた時から、ちゃんと心は知っています。それを屁理屈で粉飾しようとするから、世の中ややこしくなるのです。
現代社会は「人間脳で考えた理性的なもの=○」「本能に従順で野生的なもの=×」という価値観です。でも、あえて○か×で言うのならば「本能に素直で野性的なもの=○」で「理性、理屈、論理、理論で作られたもの=×」です。一見「狩り(ハント)」が凶暴な行為に見えても、自分の欲得のために他の個体を無意味に殺す生物はいないし、どれほど凶暴な交尾、メスの取り合いに見えても、それはあくまで生態系の理に叶った性行為/繁殖活動。必要もないのに他の個体をレイプする野生動物もいません。司法も立法も行政もなくても、野生動物は、みな「正しく」生きています。
もちろん、人間が言葉を持った社会的生物である以上、野生に還る必要はありません。でも、「動物脳(本能):7割/人間脳(理性):3割」くらいのバランスを心がけて生きた方が、きっと人間は幸福な人生を送ることが出来ます。
*『生老病死』
Aさんがあなたを批判したり、悪口を言ったら、それはAさん自身が自分を守るためです。あなたが悪いわけではない。いちいち気にして自殺するのは止めましょう。叱られて、自分がもっともだ、と納得したら、自分の行いを改めればいい。自分が納得出来ない他人の意見には従わなくていい。医者が「食べるな」と言っても、自分の心身が求めているなら食べればいいし、「吸うな」と言っても、必要なら吸えばいい。
煙草が身体に「絶対に」悪いわけではない。ほどほどに吸っている分には何も問題ありません。単に「禁煙思想」を広めると、得をする人、利益を得る人がどこかにいる、というだけの話。禁煙ブームは単なるブームです。「喫煙は悪いことだ」という罪悪感で心をバインドしない方が健康にいい場合もあるし、人によっては煙草は必須の薬にもなる。ネイティブ・アメリカンは、みんな(ナチュラルな、自然素材の)煙草を(酒と同じように)人生の一つの喜び、楽しみとしながら、長生きしていたのです。健康に害を及ぼす煙草の成分は、人工煙草に含まれるケミカルな化合物質です。
何事に付け「絶対に良い」「絶対に悪い」というものはありません。どんなものでも、過剰に摂取すれば身体に悪いし、不足しても病気になります。例えば、ダイエットのためにせよ、食べるべき物を食べずに病気になるのは、身体の病気ではなく「気の病」です。考え方や生活を変えるだけで、健康は維持できるし、回復します。出来るだけ「自然」に近い生き方をすれば病気にはなりません。もし、都会の中で健康的なライフ・スタイルを維持したいのならば、スポーツ・ジムに通うことよりも、常に身体をリラックスさせ、力を抜いて生活する努力をしましょう。顔も身体も頭も、力んでいると強張ります。肉が強張ると血行の流れが悪くなる。血流の悪さは、万病の元です。
時には医者に頼んで「数」の意見を聞く必要もありますが、「数値」に頼らないと何も判断出来ない医者は、ヤブ医者です。なぜなら機械に数値を計測させて、その数値をマニュアルと照らし合わせるだけならば、誰にでも出来るからです。
医者が患者のコンディションを判断するためには、眼で見て触れて、推し測ることが基本です。コンピュータには人間の健康状態を(予測することは出来ても)理解することは出来ません。コンピュータをツールとして使うことは構いません。でも、何事に付け、「数」「数値」に依存して人間を判断するのは止めましょう。「数」「数値」よりも「直感」「感覚」「気分」「気持ち」の方が正しいことは、まま、あります。「数」や「数値」を押し付けて来る人(医者)は警戒した方がいい。
「数」や「数値」を気にして血糖値を下げることよりも、「数」や「数値」を気にしない方が健康にいい場合もあります。そうした判断を可能にするのは、医者の技術と知識ではなく、医者のキャリア(経験)と才能です。そして、大病院の医者ほど、技術と知識と数と薬に頼りがちです。
ガンが、あまりにも辛く、苦しいのならば、対処療法でしかない抗がん剤に救いを求めることを止め、楽に、幸せに逝く方法を考えるべきです。無理に長生きしなければならない義務は、どこにもない。満足する人生を送ることが出来たのなら、スッキリあの世に行きましょう。そして、未練に感じること、思い残したことがあるのなら、その「思い」は、きちんと遂げてから死にましょう。自分で遂げることが出来ない状態にあるのなら、人に頼んで遂げてもらいましょう。若い人が人生を簡単にあきらめてはいけません。でも、やるべきことやったのなら、いつ死んだって構わない。そういう思いで生きていた方が、自己実現する前も、自己実現した後も、ストレス・フリーに生きて行くことが出来ます。
肉体というのは、リアルに単なる魂の乗り物です。でも、自動車(ヴィークル)が故障したら運転手(パッセンジャー)も事故に遭うから、マシンのメンテナンスはちゃんとしておいた方がいい。寿命が来れば自動車は廃車になるけど、運転手は別の車に乗り換えることも出来る。自動車にはもう乗らない、という人もいるし、事故を起こして免停になる人もいる。速い車もあれば、遅い車もあるし、かっこいい車もあるし、ポンコツの車もある。車の美醜と運転手の美醜は関係ありません。性格の悪い運転手が高級外車に乗っている場合もたくさんあります。ただ、運転手は車を選ぶことは出来ない。なぜなら、眼に見えない世界には、車を買うための「金」という概念が存在しないから。物質世界と違って、金を払えば、かっこいい車に乗ることが出来る、というわけにはいかない。前世での行いや、霊的な、魂の白さ、清らかさと身体的な美醜は関係しません。ただ、マテリアルとしてのマシンを、磨いたり、色を塗り替えたりすることは出来る。ただし、車体の改造はあまりしない方がいい。
当然のことながら、女性の魂が男性のヴィークルに、男性の魂が女性のヴィークルに乗ってしまう場合も多々あります。ゲイやレズは性的な病気ではなく「魂の働きが強い人」と考えて下さい。また、人間の魂が必ずしも「ヒト型」のヴィークルに乗るとは限りません。もし、自分が飼っている犬やネコが「どう考えても、血のつながった本当の家族としか思えない」と感じるのであれば、そのペットは間違いなく前世で、あなたの家族だったのです。
パッセンジャー(魂)の良さ、清らかさ、温かさ、正しさ、という概念(価値観)は、眼には見えない世界にも確実に存在します。そうした「善的な性質」は、前世での因縁や今生で置かれた環境には関係なく、人間の「思い」一つで手に入れることが出来る。そして、「魂の持つ善性」は「霊的な力」になる。
せっかくの「善い魂、清い魂、白い魂」も、肉体を離れたいのに、無理やり肉体につなぎとめられていると、だんだん濁り、薄汚れて来ます。
どうしても生きていることが苦しいのならば、肉体の命を自ら断つのも、楽になる一つの手段です。生きることを簡単にあきらめてしまってはいけないけれど、単なる常識的な世界観で、すべての自殺を否定(抑圧/引き止め)しない方が、本人のためにも良い結果をもたらします。純粋に苦しいのか、単なる安易な逃避なのか、本人ではなく周囲の人が判断してあげましょう。リアル・マテリアルとしての世界だけがすべてではありません。「自殺=(魂の)リリース」と考えた方がいい場合もある。安楽死を安易に否定するのも止めましょう。魂がリリースされたがっているのに、延命医療で無理やり肉体の生命維持を行うのは単なる拷問です。延命するかどうかの判断は簡単です。近親者の勝手な思いや都合で延命するのは悪い行い。周囲の人間が「早く楽にしてあげたい」と感じたら「楽にして」あげればいいのです。出来るだけ理屈で考えることを止め、素直で自然なシチュエーションを選択して行けば間違いない。
ちょっと痛いから、ちょっと辛いからと言って、安易にケミカルな薬に頼ってはいけません。人を救う薬も確かにあるけれど、人々の不安を煽(あお)ることによって、人為的に病気(のジャンル、名前)を作り出し、金を稼ぐために存在する薬もある。自分の身体のことは、自分が一番よく知っています。医者の診察を仰ぐ前に、自分で自分の身体の声に耳を傾けて下さい。大きなケガは医者にしか治すことは出来ないけれど、「病気」は本質的に「気の病」です。安易に医者に頼ることを止め、自分で自分の心身を整えることを考えて下さい。肩こりを治すために、もっとも効果のある治療法は、マッサージ店に行くことではなく、運動することです。
人間という生物も、もともとは四足歩行していた動物でした。だから、無意識に人間身体は四足歩行に戻ろうとします。背中が内側に丸まり、猫背になるのは、ごく自然なことなのです。人間が一番、健康的にナチュラル、自然体で生活する理想的な姿勢は、四足で歩くことです。
世界には、ごく稀に、四足で暮らしている人もいます。トルコ、シリアにもいるし、日本にもいます。彼らが、人類の中で、もっとも健康的に生きている人です。ただ、現代社会で人間が四足で暮らすことは極めて困難です。二足歩行自体が自然の理に反した不自然な姿勢ですから、放っておいても首や肩、腰に負担がかかり痛くなるのは当たり前の現象です。意識して背筋を伸ばし、胸を張ろうとすると、余計な力みが生まれ、肉が強張り、血の巡りが悪くなります。もし、二足歩行のまま健康的に暮らしたければ、適度に運動しましょう。適度に運動していれば、身体は二足歩行でも自然なバランスを取るようになり、ボディ・ラインも美しくなります。美容エステや健康サプリなど「金で手に入るもの」で健康を維持しようとするのは、単なる手抜き、怠慢でしかありません。金とで技術で手に入れたボディ・ラインの美しさは、すぐに崩れます。
また、適度な運動を心がけるなら、わざわざ高いお金を出してスポーツ・ジムで同じ場所にある動く地面を走り続けるより、近所をウロウロ歩き回りましょう。「運動」とは「運ぶ、動かす」です。実際に、リアルに動くことが肝心です。ジムでマシンを動かして付けた筋肉より、工事現場で働くことによって付いた筋肉の方がよほど「リアル」です。自分の頭、手足を使うことを怠け、面倒くさがり、放棄して、金と技術とマニュアルで何でも解決しようとするのは、人間の悪いクセです。勉強であれ、運動であれ、金や他人の知識、技術、マニュアルによって手に入れたものには、何事に付け「本当の力」は宿りません。スポーツが上手くなりたいなら、コーチの意見を聞く前に、自分で自分の身体の特質、向き不向き、適切な運動量を、自分で考え、判断しましょう。
筋トレをした方がいいボクサーもいるし、しない方がいいボクサーもいる。必ずしも毎日、欠かさず10分歩く必要もないし、無理やり毎週10キロ走っていたら身体が故障する場合もあります。場合によっては、1年間、まったく動かず、家の中に閉じこもっていた方がいい時もあります。ケガを負った動物が、洞穴の中で食べもせずじっと動かないように、心に傷を負った時は、その心の傷が癒えるまで、シェルターに身を隠していた方がいい。何事も臨機応変、その時、その場所で適切な対応をしましょう。自分で自分の身体の声を聴こうとはせずに、他人の意見やマニュアルで「答え」を均一化することは止めた方がいい。緑黄色野菜、鉄分、塩分、ミネラル等が毎日同じバランス(配分)で必要なわけではありません。時には甘いケーキを山ほど食べた方が、高塩分の塩じゃけを食べ続けた方がいい場合もある。何でも均一にバランス良く摂取するのではなく、その時、その時で、身体が一番欲しているものを食べればいいのです。「何だか知らないけど、無性に焼肉が食べたい」と感じるなら、それが、その時、あなたの身体が求めている食べ物です。子どもの健康を本気で考えるならば、全校生徒が同じ栄養バランスの献立を食べるより、お母さんが子どもの体調を考えながら作ってくれたお弁当の方が良い。
人間の身体は、その土地、環境でとれる農作物に適応します。ササしか生えない土地に暮らす生き物はササに身体が適応するし、ユーカリばかりが生えている場所に生息している生き物はユーカリの成分に身体が適応する。ササ動物にユーカリを食べさせるのは健康に悪し、ユーカリ動物にササを食べさせるのも健康に悪い。日本に暮らす日本人が高価な輸入食材を摂取する必要はまったくありません。都会の日本人は、日本の田舎で捕れた米と肉と野菜を食べるのが一番です。
また野生動物は他の動物と触れ合いながら暮らしています。一匹オオカミと言えども、地球上に一匹で暮らすことは出来ません。日常化したセックスを無理に行う必要はありません。でも、親しい人とは肌と肌を触れ合い、出来るだけスキンシップをしましょう。そうすれば、心も身体も温かくなります。
子どもが「お腹が痛い」と訴えたら、薬を飲ませる前に、病院に連れて行く前に、お母さんの温かい手のひらを、優しい気持ちを込めて、子どものお腹に当てて下さい。大抵の腹痛は、それで治ります。
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【定価】1,620円
【発行】2015年3月11日
【総ページ数】221ページ
【版元】青山ライフ出版
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